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『屍者の傍らで眠る』〜其の陸 [いま]

2023/02/20 ・・・本文の後に2つ追記しました。

まるで対岸の火事.jpgIt's like a fire on the other side of the bay.日本語に訳すなら『まるで対岸の火事のよう』 

 

 

直観の鋭い人は霊感も強い。

 

自分の事だからそれがよく分かる。

 

そんな僕にとって、人の評価の殆どは、初見の心象と心証で決まってしまう。

皆もそうかもしれないが、僕の場合は見た目といった外因や湧き出た感情で判断する訳ではない。

つまり外見や伝聞で人物を判断はしないしそれらに影響を受けることもない。

しかし、もし平常心(中庸)が保てない心境にあれば僕はそこで見定めを止めてしまう。

僕の心に映ったその為人の印象に基づいて決まるのだから、雑念がそれを妨げるとなれば当然だ。

故に評価にバイアスが掛からないニュートラルな状態で為人の印象が脳裏に焼き付けられる。

外見や感情に囚われないと言ったが、例えば僕は人の見た目の美醜に囚われたことはない。

美しいものに憧れはある。だが眉目秀麗或いは明眸皓歯な人が心まで美しいとは思わない。

むしろ容姿が人並みか凡庸か、或いは劣っていると思われている者の中に、

本当の美しさを見いだすことさえある。心の有りようは容姿に必ず顕れるものだからだ。

だから、この世で最も美しい人は、心の清らかな人であると思っている。

その、心の清らかな存在を識ることが出来る人もまた、心に濁りがない人だといえよう。

 

それからするとハロー効果に幻惑される人は、結局は幸せを掴んだり心の平穏を得るには程遠い。

一刻も早くそうした認知バイアスなどに陥らない、心をニュートラルにする術を会得すべきだ。

その早道は一旦自分を捨て去ること。

然すれば認知バイアスから解き放たれたことを人は知るであろう。

そうなれば人の書く文章や声色や挙動等から、直観的にその為人を判断するのは造作もないこと。

会わなくても書く文章だけで本性を見抜いてしまうことさえある。それもほぼ的確に!

これは心に濁りのない、霊的なものを介しているから、感知できるのだろうと思っている。

まあその僕でさえ、時に心が濁ることがあるけどね。その大概は我欲が生じた時と理解している。

だからこそ心をニュートラルにし、清らかな状態に保つよう要所要所で心掛けなければならない。

この心をニュートラルにとは『中庸にして過甚ならず』ということ。※意味は自分で調べてね。

 

しかし残念ながら世の中の過半は、清く正しく美しいものとは程遠いのが実情である。

貪欲、策謀、怨嗟、嫉妬、欺瞞、虚偽、虚栄、後悔、嫌悪、恥辱、軽蔑、優越感と劣等感。苦悩、

憎悪、懊悩、煩悩、諦観、絶望、虚無感、 etc・・・。

そんな負の感情が、心の平穏や幸福感や充足感を、人々から遠ざけているように思えてならない。

全てが心の有りよう、持ち方次第で良くなる事も知らずに、今日も人々は欲望に突き動かされる。

過半の人々は、日々そんなつまらないものの所為で、日々右往左往している。

 

その様な現実を幼い頃から見てきた僕は、人の醜さを嫌というほど見せつけられてきた。

正に被害者一辺倒であった幼少期と少年期を過ごした僕なのだから尚更であろう。

だからこそ不正や欺瞞や虚偽の臭いを嗅ぎ分ける能力は人一倍あると自負している。

それが過半の人には見抜けなくとも、僕にはそれを鋭敏に感知する能力があるし、

その者の放つ言葉とそれに伴う行動が、僕の理解を超える得体の知れない何かによって為された、

と推測されるならば尚更のことそれを座視できず、是が非でもそれを知ろうとするであろう。

以来パブリックとプライベートの別なく、僕は数多欺瞞や虚偽をそうして暴いてきた。

 

しかしそれは結果でしかない。

 

元々人々の嘘や人を欺き騙す行為を暴こうなどという動機でそうした訳ではないからだ。

すべて未知なるものを知りたいという根源的な好奇と探究心と自己防衛本能ゆえの言動だ。

だから得体の知れないものを見ると不安や恐怖心に駆られるどころかその真相に迫りたいと思う。

そうした経験から得た真理の一つを僕は知っている。

 

どの様なものであろうとも、それから逃げようとすれば、逆に追いかけられるものなのだ。

 

世の中のそうした真理をどうして多くの人は見抜けないのだろう。

だからこそ僕は、事実を積み重ねて真実に至るまで、追及あるいは探究を止めることはない。

 

何度も言うが、は知らないことを知らないままにはして置けない性分なのだ。

それは元来好奇心が人一倍強いだけでなく、不知が後々自分に災いを為すと知っているからだ。

僕の経験則からすれば、不知であることは無知であることと同義である。

故に僕にとって、不知と無知は、罪であるとさえ言える。・・・だから何度でも言う。

僕はそうした風潮に棹さし、流れに逆らい生きていこうと思っているし、これからもそうだろう。

 

僕をそうせるのは、不条理で不公正で理不尽なこの世界が許せないからだ。

長い物には巻かれてはならない。その正体を知ったなら、不正や悪意からは遠ざかるべきだ。

だからこそ、世の中は清廉潔白でなければならない。

人々の心は美しくなければならないと、思い、願い、信じるのだ。

 

たとえ世の中がそうでなくとも、否、そうではないからこそ、そうありたいと切望する。

 

ところが世の中の大半は、僕とは真逆に出来ているらしい。

臭いものは蓋、長いものには巻かれ的な風潮、座視やネグレクトが当たり前になっている。

だから僕は、そういった過半の風潮に棹さす者として、逆に皆からは疎まれ白眼視される。

つまりムラハチブという訳だ。それからすると僕は到底皆には理解されない存在であったらしい。

 

だから前号の恩田陸のユージニアの一節のように、僕自身が彼ら彼女らから理解できないもの、

時にはあやかしのようにも見られ、僕の言動に対してまるでメビウスの帯の如く表裏もなく、

それこそ際限すらもなく、見て見ぬ振りが繰り返される。

であるから、問題児扱いされて疎まれることは幼少期はそれこそ当たり前だった。

それからすると、人間とは元来が異質なものを恐れ、遠ざけたいと思う生き物なのだろう。

つまり僕という素の存在は、いつまで経っても皆のいる世界の外に在る者として認識され、

その為人は正しく理解されないし、当然ながら受け入れられもしないだろうし、

僕と彼我(皆さんのこと)との意識の乖離はそうそう埋まることはない。

 

と言いながらも元来がそうだから、今さらそれを嘆くこともない。

況してや皆から今さらながらそれを理解して貰おうとも思わない。

理解して頂ける方が一人でもいればそれで御の字と考えている。

 

という訳で、僕が皆とはちょっと違った考えを持ち、常人には見えないものが見えると言い、

ひと様から奇異に思われる切っ掛けとなった体験について、お話ししようと思っている。

それは確か小学三年の晩秋の頃、父方の祖父の訃報を聞いて里帰りした時のこと・・・。

 

 

 

と言いながらそれは今回ではなく、次回までのお預け・・・(*^_^*)

 
 
 
・・・・・・・・!
 
 
 
知ってました?
 
 
 
あなたの周りにも霊魂がいることを。
 
 
 
知っていますか?
 
 
 
本当に美しいものには棘も毒もないことを。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
心を中庸に保ち、霊的なものを識るか知らぬかで、この世のすべては変わってしまう。
 
 
 
然すればあなたも、霊魂を目の当たりにし、それを信じれば心の平穏を取り戻せるであろう。
 
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 
<2023/02/20 9:20 追記>
 
先週金曜日だったか、78歳の男が次々と前方の車やバイクに追突し、そのまま当て逃げした『事件』があった。それに関連して僕の考えを述べたいと思う。
とは言っても事件のことではなく、日本語の乱れについてのお話だ。
 
まずは事故の話。
 
これは明らかな連続追突事故であり尚かつ人身事故だが、78歳の被疑者が逃げた時点で事故ではなく『事件扱い』となっているはずだ。当人は「記憶にない」と言っているという。
しかし映像を見る限りにおいて推測されるのは、あれだけの衝撃がありながら記憶にないことなどあり得ないということだ。
 
認知症を疑う人もいるだろうが、もしそうであれば衝突した部位以外にも、車体には車庫入れ時などの擦過傷とか傷がついているのが普通で、事故部位以外目立った傷は見当たらないというのだから、パニック状態に陥っていたであろうことは容易に想像できる。
 
しかしパニックに陥ったのは、たぶん事故後車が一旦停止した後だと推定される。追突を繰り返してようやく停止した後も、前輪は数秒間空転してづけていたことからも、初めの追突以降もアクセルは踏みっぱなしだったことが映像を見れば分かる。
数台に追突した後に車が止まり、そこでようやくタイヤの回転が止まっていることから、パニック状態になったのは、その後だということもそこから容易に想像できる。
 
それに現場にはブレーキ痕がまったくなかったという。そこから言えるのは78歳の男が前方不注意で起こした事故だということだ。そして追突後もアクセルから足を離さず踏み続けていたからこそ起こった事故と言えるだろう。ブレーキ痕が初めから一切ないということは、恐らくはブレーキとアクセルの踏み間違いではない。
 
78歳の男にとって、この一連の出来事は恐らくはあっという間の出来事だったのだろう。そしてようやく車が停止して、そこで初めてパニック状態に陥ったと考えるのが妥当な推測だと考える。ゆえの「記憶にない」発言だと僕は思っている。
 
ところで僕がこの『事件』を取り上げたのは、追記の冒頭にも書いた通り、事件そのものについてではなく、『日本語の乱れ』について皆さまにお伝えしたかったからだ。
私が見たのは民放のモーニングショーだが、例によって例の如く、78歳の男のご近所の住人に、78歳男の普段の様子をインタビューしていた。
そこで近隣の住人(この方も70代)が言った言葉が適切ではなかった。
 
「<前略>普段はとても温厚な人で、とてもこんな事をする人だとは想定していませんでした」
 
え〜〜〜〜っ、『想定』???
 
70代でもこんな言葉の間違いがあるのかとちょっとビックリ!
たぶん「想定内」などという言葉が流行りだして以降の話なので、その影響を受けてのこの発言なのでしょうが、そもそも想定とは、「あらかじめ(仮に)条件や情況を思い定めておくこと」なんですよ。
インタビュー映像を見る限り、「思いも拠らなかった」という意味で話しているのだから『想定』など出来ようはずもない。それなのに『想定』って一体何?・・・てな感じです。
敢えて言わせて貰うならば、喜寿近くにもなって、未だに日本語の使い分けがまともにできない方がいらっしゃる事に、ただ驚くばかりです。
ここは「思いも拠らないことでした」とか、<想>という言葉をどうしても入れたければ「想像できませんでした」、または「想像に及びませんでした」、あるいは「想像すらできず唯々驚くばかりです」と言うような言葉遣いが、適切というか言葉の選択肢とて妥当だったのではなかろうか。
 
これを見るにつけ、今や日本人の過半は、その場に応じた言葉の適切な使い方を知らないなと思うのですね。これで、これからの日本人、本当に外国語の習得などまともにできるのかなと首を傾げてしまう僕でした。
 
だって、母国語である日本語さえまともに使えないんですよ( ̄∇ ̄)
 
 
<2023/02/20 14:05 上記追記に関しての再追記>
 
先ほどまで食料品の買い出しで外出しておりました。
 
その外出中に思ったことがありまして、それを追記したいと思います。
『想定』という言葉がなぜ発せられたのかとつらつら考えるに、これは僕が以前に述べた「認知バイアス」の一種である『ハロー効果』そのものなのではないかとふと思ったのですね。
 
西暦2005年当時、「想定内」という言葉がかのホリ〇モンの口から発せられた時、この言葉は流行語大賞まで取ってしまったほど、流行った言葉でした。それ以降この言葉は、ホリ〇モンという人物と共に『ハロー効果』に因ってすっかり市民権を得たように思います。
 
もう言わなくても分かりますよね。多くの人々の頭の中にこの『想定内』という言葉が刷り込まれたことが、ひょんな事から思ってもいない場面で口を衝いて出てしまうことは往々にしてありそうに思えます。それこそ『想定内』なのではないでしょうか。
 
だから本来は「想像できない」と言うべきところ、「想定できない」と言ってしまったとも受け取れる訳です。なにしろ現代の日本人の認識の過半はバイアスが掛かっていますし、その自覚症状さえないのが、当たり前になってしまっていますから。
 
もちろん可能性としては、被疑者である78歳男性の近所の住人が、インタビューを受ける際に、意図的にそんな言葉を使った可能性がないとは言えないのですが、その可能性は低いと言わざるを得ません。それにそんな見方をごくフツーの感覚をお持ちの方はしないと思います。
 
ところで、どこぞのお〇カな学習〇経営者が、こうした己の一見識もない『捻くれた見方』を、『これ(自分の考え)は穿った見方でしょうか?』などと書いて、ある意味自画自賛しているのを以前お見かけして、「ああ、これこそ〇カ丸出しだなぁ」と思った僕でありました。
 
なぜこのお方を、そう思ったかと言えば、大した長文でもないブログの記事ですら、普段から誤字脱字が絶えず、用法など時に支離滅裂で〇カ丸出しだったからなのですね。
 
例えば昨年11月の記事ではタイトルからして日本語として間違っているのだから、これで教育者と言えるのかどうか、甚だ疑問に思うわけです。教えられる子どもがかわいそうかどうかは知りませんが、少なくとも間違った国語教育をする確率は大と言えましょう。
 
では昨年11月のこの方の記事についてお話ししましょう。
 
このお方によると、『ついに立〇〇主党も「与ゆ党体制」に組みする。』と言うことらしいです。
 
このタイトルを見た瞬間に僕は失笑しました。日本語の適切な用語も用法も知らずに使うとは相変わらずだなと思ったからです。
 
もしかしたら、このブログに行ってコメントしている人達って、『〇〇に組みする』というタイトルを見ても何一つ疑問に思わない人が過半だという事なのでしょうか。もしそれが事実だとしたら、現代日本人の言葉遣いは変化しているのではなくて、崩壊しかねない情況にあるといえるのかもしれません。
 
この表記は、本来であれば『〇〇に組みする』ではなくて『〇〇に与する』と書くのが正しい言葉遣いです。そこに言及した常連ブロガーが誰一人いないという事は、そんなことも分からないこの方とその取り巻き連中ご一行さまの認識ということなのでしょう。これは重箱の隅を突いた訳ではなくて、この方の本質的な問題について語っていると認識して下さいね。
 
ところでこの「与ゆ党体制」という造語も、いつもながらこの方お得意の他から持って来た付焼刃的知識でした。それによれば、政治学者の中島某さんなる者が、野党の一部が「や党」と「よ党」の中間に立って、与党の政策に協力していく体制を、「野」と「与」の中間だから「ゆ党」と名付けたとのことでした。
 
(僕のこの書き方の方が、この方の記事の説明より、よほど分かりやすいとは思いませんか!)
 
しかもこの言葉を軸に、実に珍妙な我説を開陳するに及んで、失笑する他はないわけです。
何せこの学習〇経営者の記事の中に挿入された、荻上某が書いたという<野党の仕事は「反対すること」>なる論考の引用部分には、出典元のリンクさえないのです。これは明らかに著作権法違反です。原典にどの様なことが書かれているか検証すらできない状態で引用することはそもそも法律上禁じられているのです。
 
知っていました???(皆さんも往々にして遣っていることなので注意しませう)
 
それにこの論考、おかしな言葉が一杯出て来る。その検証すらされずいつもの様に、己の拙い考えを補完するために、何の批判もなしにただ垂れ流しているだけ。真っ当な論客なら、幾ら自説に近い意見であっても、そのまま引用することなどあり得ない。ここには批判精神などまったくない訳です。
 
事実、自分の珍説・駄文に、権威付けあるいは正当性を持たせるがための違法な引用ですから、そこに初めから批判精神など発揮しようもない訳です。だから駄文だと僕は言っている。
 
こうした事実から分かるのは、コロナワクチンに関連した、多くのフェイクニュースを垂れ流したあの時と、こうした引用の情況もこの者の認識も、それこそ何一つも変わっていないことがこの記事を見ても分かってしまうのですね。
 
それを如実に示している箇所を2点のみ(全部取り上げたらキリがないから)抽出してみました。
 
>国民に対して代案を提示するのと、議会において代案を提示するのとでは役割が異なるのです。
 
そもそも日本では「議会」などとは言わず「国会」と称するのが普通。一事が万事、それだけで読むに値しない論考だと僕なら思います。小説だって初めの1ページ目に誤字脱字があったら読む気がなくなるのと同じです。
 
それにこんな駄文というか迷文までありました。
 
>(前略)だから野党というのは、最悪のパターンを想定して反対することが大事な役割となる。
>むしろ、賛成ばかりする野党では、存在意義がありません。重箱の隅を突くくらい、
>慎重に法案に「ツッコミ」を入れることで、(云々)
 
僕の目から見たら、この学習〇経営者さんと、この論考の主である荻上某が、『想定』の使い方や、『重箱の隅を突(つつ)く』の意味とか、『慎重に』の用法を真に理解して使っているとは到底思えない訳です。
 
そもそも『重箱の隅を突(つつ)く』とは、ものごとの取るに足らない部分に注目し、難癖をつける事を指す言葉です。そんなことが野党本来の仕事だと認識しているとしたら、この学習〇経営者さんと論考の主である荻上某こそ、本当に大した見識だと僕は思わざるを得ない訳です。
 
だから<慎重に法案に「ツッコミ」を入れることで、>などという、「慎重」と「ツッコミ」という相容れない言葉を一つのセンテンスに入れるという、珍妙で姑息な表現にならざるを得ないという事でしょうか(爆)
 
という様なことが、この教育者の思想(と呼べる代物ではないと断じますが)の根底にあるのは、一見して時の政権や世間を批判しているようでありながら、実は中身が空虚で説得力も何もない浅薄な考えに基づく作文程度でしかない訳です。だからこそ非難や誹謗中傷に堕してしまうしかないのでしょう。
 
僕が思うには・・・
 
この者に根本的に足りないのは、「反対する事」ではなく「批判精神」だと断じましょう。
 
そう思うのも当然です。この学習〇経営者さん、一昨年の末の『僕のお友達の批判コメント』に対して、「批判は許さない」、「気がつき次第すぐに削除します」と大見得を切って捲し立てていましたからね。
 
しかも削除するその理由が「気に入らないものは気に入らない」「消せる機能がある以上消してどこが悪い」程度のまさに小者振りを大いに発揮していました。
僕なら、相手の主張が間違っていると思うなら、相手のコメントを削除などせずに、堂々と論破しますよ。結局、後ろめたいところがあるとか、己の欺瞞や偽善振りが明らかにされるのが恐くて、消さざるを得なかったのだと思います。
 
だから批判を許さないと大見得を切ったり、僕のお友達が大声で恫喝したとか、実際ありもしない絵空事を並べた立てて、何も知らないブロガーの同情を託ち、しかも仲間に引き入れて、相手を非難し誹謗中傷した訳です。
 
この経緯を見るにつけ思うのですが、これって批判と非難の区別さえつかないお粗末な認識ですよね。
 
それに「批判はゆるさない」って、まさに狭量な小人物根性丸出しじゃないですか。
 
まともな人ならそんな主張、誰一人耳を貸しはしませんよ。でもSSブログじゃ貸しちゃう人が実際にいるところを見れば、まともな人はこのブログに出入りしていないのかも知れません。
 
だから真っ当な見識に基づいた「批判」を『誹謗中傷』だとか『名誉毀損』などとしか受け取れない訳です。しかも自分は一家言の持ち主だという誤った認識をお持ちのようで、他人様の意見を素直に受け入れられないのだと思います。
 
それゆえの「批判は許さない」発言なのです。本当にケツ目処の小さきお方ですこと。
 
だからこそ僕は、この者とそのお仲間常連ブロガーは、本当にお〇カだなと思うのです。
 
ついでにお伝えしておきますが、知ったか振りで専門外の事柄をテーマに書く愚かさを、ご当人は知るべきだろうと思う。それに違法に他者の著作物から違法に引用し、己の拙さを糊塗するいつもの遣り口がいつまでも通用するとは思わない方がいい。
 
僕が思うに、この学習〇経営者がブログで書くべきは、そのブログタイトル、学習『〇経営の〇〇から考えるBLOG』とあるように、教育に限って書いた方が宜しいのではなかろうか。
 
例えば、専門外のしかも政治や政局などを語るという分不相応なこと止めた方が良いと思う。遣っちゃいけないとは言わないけれど、遣るなら遣るでもっと本腰を入れて、時間を掛けてもっともっと掘り下げた上で書くべきだと僕なら思うのですね。しかも他者の論考を違法に流用したりといった、「他人のふんどしで相撲を取る」ようなみっともないことをするのではなくて、そのテーマについての自分の考えをしっかりと持った上で、初めて言葉にしたり文章として公開すべきだと思うが如何?
 
今まで同様、日本語をまともには使えないとしても、それなら誰も批判などしないであろう。
 
<追伸>
 
僕もリンクを貼らないで引用しているから、著作権法違反なんじゃないのと思う方のために、そうではないことを説明申し上げましょう。
 
まず第一に、この教育者の当該記事には原典にリンクが貼られていないのだから、検証もしようがないのでその時点で僕は引用を諦めました。つまりこれは私の『仮説』として、読んで頂こうという趣向です。
 
こうして誰が書いた文をかを明らかにしていない上に、この記事が誰かを貶める目的で書いていない以上、「これは架空の出来事を前提として書いたもの」と皆さまに捉えられても良いと僕は考えて、この追記を書き込んだ次第です。
 
以上です。
 
 
〜TODAY'S SERVICE SHOT.〜

寝そべって夕日鑑賞.jpg

 

このお御足は誰のもの?

 

 

 

 

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『屍者の傍らで眠る』〜其の弐 [いま]


2023/01/19 17:00既製のレイアウトはちっとも面白くないので、オリジナルヘッダーに替えました。


03波打ち際.jpg

2023/01/22 10:20上記の写真を入れ替えました。前の写真とは波形や海の照り返しが異なります。


夕日を見るのが好きだ。

でも両手をメガホンよろしく口に当て、

沈みゆく太陽に向かって「バカヤロー」なんて叫んだりはしない。

半世紀も前の学園モノ青春ドラマじゃないんだから。

でもね、一人黙然と沈みゆく夕陽を見詰めるのは好きなんだ。

太陽がまるで地球に吸い込まれるようにすうっと水平線に沈み、灰色掛かった反薄明光線が、

富士山の稜線の形通りに、東に放射状に薄墨色に流れる滅多に見られない幻想的で美しい光景。

その美しい光景が薄れぼやけ、富士のお山の秀麗なシルエットが茜色から濃灰色に色を変える頃、

空が茜色から徐々に青みを増し、縹(はなだ)色から群青へと次第にその色を変えていく。

それがやがて瑠璃色になり、瑠璃紺に変わり、そしてついに濃藍(こいあい)に至り夜を迎える。

そうして日没からわずか四半刻のちには空のあちらこちらに星が瞬き、

夜の時空にこの世界が完全に支配されるまで刻一刻と時をきざんでいく。

その三十数分間のドラマが、僕にとって、否、人間にとっても、

とてもとても大切な時間にも思えるんだ・・・。

 

夕暮れは人を夢想家にも芸術家にも、詩人にも哲学者にも変える力を持っている。

 

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