第一印象は本当に大事なのか<Vol.2> [静謐な一日的ESSAY]

この写真は何か。また、この写真にあなたはどんな印象を持ったか。あるいは何を連想したか?
常識とか通説というものを僕は余り信じたことがない。というより、常識に囚われないというか、既成概念を先ずは疑ってみるという僕の常識は、<common sense breaker>であるからにして、世の中からは非常識と捉えられ異端視されるのかもしれない。しかも一旦口にすればそれを変えないところから、横紙破りな人と言われることもある。
ところでなぜ常識に囚われないのかといえば、僕の判断は直観に基づいてなされることが圧倒的に多いからだ。というより僕も皆と同じように第一印象を大切にしているし、元々初見で論理的に物事を捉える習慣も考えもない。糅てて加えてその判断の基準に恐らくは経験値は生きてはいるものの、それを意識することなく、即座に下されることが圧倒的に多い。
しかしそれ以降が人とは違っている。僕は何事も必ず懐疑的に考えるのだ。つまりあくまでも第一印象は第一印象であって、それが正解とは限らないと考えるのだ。だからいつも第一印象の後に必ずこう思う。
『それで本当に良いのだろうか』と。
ゆえに第一印象をすぐに言葉にすることはない。それは上記の理由に因るのだが、と同時に己の判断に自信がないとか、迷いがあるからという理由でもない。多くの場合、周りから必ずといって良いほど誤解を招くからだ。
何しろ僕は異端者だから。だが概ね『正しい異端者』だ。
例えば周りの多くがあるひとつの案に靡いて、尚且つそこに僕自身が直観的に違和感を感じた場合、大概の場合多くの人達が肯定している案こそが間違っている。
だから僕は(他人の考えや印象よりも)自身の(違和感という)直観を信じるのだ。
そこからその直観の論理的裏付けや実証を重ね(とは言っても短時間である)、そうして初めて公に口にする。しかしそれでも時に懐疑的に周りに受け取られるか、ある種の反発を以て迎えられるのだった。反発の理由は簡単だ。
それは彼等彼女らの第一印象や常識とは異なった判断、あるいは結論だからだ。
それでも大概の場合、僕は一旦口にしたことを撤回しない。
なぜならば僕は誰が何と言おうと『正しい異端者』だからだ(^_^)
第一印象は本当に大事なのか<Vol.1> [静謐な一日的ESSAY]

2022年1月1日元旦の富士を眺む。
謹んで新春をお祝い申し上げます。今年もよろしくお願い致します。
昨年はブログを開設して二回しか更新しない為体でしたが今年もそうなりそうです。あくまでもオフィシャル優先でプライベートで余裕のある時、尚且つ書きたいことがある場合だけ記事を書く。・・・そういう(我が儘な)姿勢で、今後も続けていく考えですので、どうかその事をご理解頂いた上でお付き合い頂ければと考えております。
では本題に入ります。標題は「第一印象は本当に大事なのか?」です。
実はこれ、『己は何者なのか?』という本質的な問い掛けともなり得る、実に哲学的命題なのです。
人々の認識は根拠のない事柄に大きく左右され、その結果の判断や結論は概ね著しく歪められるのが常だ。それが第一印象というものの危うさだといえよう。
だがその第一印象を過半の人々はその後も引き摺って、最後まで初っ端の印象による考えを改めることができない。
ということは別の言い方をすれば、第一印象で本質を捉える確度を上げるか、あるいは己の感性を磨くという発想になるのだが、むしろ第一印象に囚われることなく、柔軟な発想でその本質を見極めてから結論を出すという考えることもできるのではないか。むしろ直観が鋭くない人は、第一印象を捨てて後者を選ぶ方が本質や真実に迫れるだろうという気がする。
という訳で人見た目が八割などという言葉を僕は端から信じない。
この、過半の人が第一印象に引き摺られる現実を、大したことではないという人は、少しというよりかなり大げさかも知れないが、結果的に犯罪の被害に遭っても、戦争や紛争に巻き込まれても、何一つ反論ができない。
なぜなら第一印象を優先させたがゆえに、一番肝心なその事柄の本質を見誤ってしまっただけでなく、その後何度も認識を改める機会があったのに、その機会を見過ごし第一印象の根拠を探るでもなく、唯々無知蒙昧に自分の判断なる幻想を事実あるいは真実だと信じ込むという愚を改めようとしなかったからだ。
それを心理学的にいえば『ハロー効果』によって『認識バイアス』が掛かっている状態という。