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『屍者の傍らで眠る』〜其の㭭 [現れ出でるは・・・]

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〜PAIR AND A STALKER.〜

 

 

 

 

霊魂の存在を目の当たりにし、それを当然の事として受け入れて以来、他人と自分との違いの大きさが僕を大いに苦しめることになる。それと同時に、その真逆ともいえる恩恵に預かって来たのもまた、事実というものであろう。

青年になって以降、普段の僕がそれ(霊魂の存在)を意識したことは殆どない。だがそれはあくまでも意識の表層での話であって、むしろ無意識下ではその存在が少なからぬ影響を及ぼして、ありとあらゆる場面や局面において意思決定の根幹を支配していたに違いない。

そう思えるのは、外的要因によってなされる己の行動や決断の切っ掛けとなるべき何らかの判断を、他人の目からすれば自分の意思で決定したという風にしか見えないし思えないのに、僕からすれば実のところ己の意思に因ってそれが為されたという感覚がまったく以て希薄だったからだ。

僕はそれを便宜上『直観』と称しているが、そこに論理的あるいは合理的なものは希薄だし、少なからぬ経験もその判断の元にはなっているのだろうが、結局のところ自分のうちに確とした行動原理やその判断の基準となったものがあって、そうしていた訳ではないからだ。

まあ何を元に判断をしたのかと人に聞かれれば、『直感!』と言うことにしている。

という次第で、確たる信念も確証も理路整然とした考えすらも無しに、こうしていつも何かに導かれるように即断即決で答えを見いだし即座に次の行動に移せるのは、己を守ってくれている霊魂の導きによるものであろうと、いつしか僕は思うようになっていた。

つまり霊魂の存在を確信して以来、守護霊の存在をも僕はずっと信じている。

当然ながら、これまでの来し方にそれは色濃く影響を与えていたであろうし、今こうしている時にも、これからの行く末にも影響を及ぼすことは必至だろう。

僕の心の動きについてついでに話しておこう。上記の思惟を経ずして直観に従うということも然りながら、僕は理解しがたいことや不可思議と思ったことは捨て置かない質(たち)だ。疑問を持ったらそれを解決せずにはおれない性格なのだ。それだけでなく、幼い頃に自分の身に起こった様々な不条理な出来事ゆえか、他人の僕への理不尽な振る舞いも、不正で邪な行為といった悪意に基づいた言動も、一切合切見逃さなかった。

なぜなら知らぬ事を捨て置くと、必ずそれが災厄として自身の身に降り注ぐと知っていたからだ。

その様に自身の周りの人々の言動さえそうなのだから、人智を超えたものなら尚更だろう。

そして何事も決着が付くまで頭の中からけして消えることはない。つまり忘れることはない。

 

 

 

まあそれほどまでに真相あるいは真実の究明に熱心な僕ではあるのだが、その一方で一度それを知ってしまうと、途端に興味を失ってしまう、それと同時に大方は記憶することなく忘れてしまうところがある。

まあ僕からすれば、一つのことに拘泥する弊害に競べれば、(自らの意思と努力に因って解決を見たら、)適宜その場その場の状況を見て記憶に残すものと忘れても良いものとを峻別するのは、理に適った話ではあるのだが。

ここでちょっと『記憶』と『忘却』について、視点を変えて話をしてみよう。

思うに記憶力というものは、忘却力(『忘れる能力』という意味)と対であってこそ、増強されるものであるとも言えよう。しかしそうして忘れ去られた記憶でさえ、実は完全に消失してまうわけではない。

人が何かを記憶するという現象を端的に説明すると、『記憶』とは、視覚・聴覚・触覚・嗅覚・味覚の五感から脳に入った情報を、一旦『海馬』を通して整理整頓して、その場で使う記憶と、そうでない記憶とに振り分け(記憶をインデックス)する脳内の生理現象である。

これは余談だが、この『五感』と『知覚』とを混同してしまう人が少なからずいるようだ。だがこの二者はまったく異なるものだ。『知覚』とは、五感に因って感じ取った外界の刺激に、『意味づけするまでの過程』を指して言う言葉だ。

例えば熱湯に触れて熱いと感じるのは、触覚によってその物の温度が気温や体温よりも遙かに高いと、脳が(五感を通した外界の刺激に対して)『意味づけ』をしているからに他ならない。つまりこれこそが『知覚』というものの正体だ。

もう一つ余談として付け加えるならば、ニンニクのにおいを嗅いで、それを「臭い」と取るか「食欲をそそる良い香り」と受け取るかは、人それぞれの『知覚』に因って変化する。つまり五感で得たものは本来は一つの筈なのに、それぞれの『知覚』を通すとその答えは十人十色になる。

だから視覚や聴覚で得た情報を十人に聞いたら十通りの答えが返って来るのがフツーである。なぜなら人間には元々客観性など備わってはいないし、その者固有の感情がすべてを支配し主観的にしかモノを見られないし感じられないからだ。

ゆえにTVやインターネットから視覚や聴覚で得た情報が人それぞれで認識が異なっているのは、この『知覚』が原因にあると考えるべきであろう。そこがあらゆる意味で『正常』でないと、すべてが『歪んで感じられる』ということになりかねない。

 

 

 

『知覚』について、言い方を変えてもう一度説明しよう。

実のところ『知覚』と『心理』は密接に関係しているので、『知覚』で得た情報という刺激は、その者の持つ『心理』によっていかようにも変化・変質してしまう。

極端な例で申し上げるならば、先ほどの熱湯に触れた場合の知覚について言えば、痛みや苦痛を感じる者が過半であろうが、それを快楽や愉悦と感じる倒錯した感覚の持ち主がいても、ちっともおかしくない今の世の中である。それは何も日本に限った話ではなく、古今東西世界中もどこに行っても変わらない真実だ。

人というものは、知覚とか心理そのものに人それぞれの性癖などのバイアスが掛かるのが常であり、故にその答えが集約されることはない。という訳で見方は千差万別なのが自然な姿というべきであろう。だが昔はそこに暗黙の了解というか一定のルールがあって、混乱を来すことはなかった。

しかし今はそれがない。つまり無秩序状態なのだと思う。それは皆が皆自信がなく、心の拠り所までなくしているからで、それこそが、まさに現代社会に色濃く影響を及ぼしていると僕は考えている。

しかもその根本原因が、僕たちを取り巻く『情報化社会』にあるのは間違いないところであろう。

 

 

 

閑話休題。

 

『記憶』の話に戻そう。『記憶』とは脳内の生理現象であるとは先に言った通りである。

今、目の前で起きている事象に対応する記憶(=短期的記憶)は海馬に留め置かれ、その他の(必要と思われる)記憶(=長期的記憶)は、一旦『大脳皮質の側頭葉』にある『記憶の抽斗』に、海馬の指示の元に整理整頓(インデックス)されて納められる。

そして一旦記憶の引き出しに収められて以降、その記憶に合致あるいは類似した、五感を通した事象が再びその者の目の前に現れた時に、再び海馬がその抽斗から適宜インデックスされた記憶の抽斗を瞬時に開けて、その最適解を思われる記憶を海馬に呼び戻す一連の作業。・・・これら決められた手順で読み込まれ、呼び出される脳内活動そのものが、『記憶』というものの正体だ。※しかも前出の『知覚』というフィルターを通した記憶だ。

ところで、その側頭葉は無尽蔵に記憶を貯め込められる訳ではない。容量こそ人それぞれではあるが、限界・限度というものは必ずある。水瓶に溜められる水量は、その容量以上のものは、当然ながら溢れ流れ出てしまう。記憶もそれとまったく同じだ。

だから通常であれば、終わったことはすぐに忘れなければならない。そうしなければ新しい記憶は入って来ない。それでも無尽蔵に貯め込める人間がいるとしたら、それは天才を通り越して、狂人と化してしまうだろう。「天才と狂人とは紙一重」とは恐らくはこの事を指している。

つまり人間は、忘れることによって、未来に向かって生きていけるのだ。

学生時代を思い出して欲しい。試験が終わるとそれまで蓄えていた知識の過半(特に答えに至る過程の記憶)は消失して、記憶の隅にも残ってはいない筈だ。しかしなぜか(日常生活で役に立ちそうもない)数学や物理で覚えた公式とか、歴史で覚えた年号とかは、いつまで経っても記憶の底に残っている。

それこそ還暦を過ぎても尚残っているものも少なからずあるのは事実だ。事故に遭って脳の一部(特に海馬や側頭葉)が損傷したり、加齢や病的な要因により認知症にでもならない限り、記憶はたとえ忘却の彼方にあろうとも、適宜記憶の抽斗から海馬に呼び戻すことは可能だ。

ただし、いつ如何なる時もそれが瞬時に行えるように、脳を活性化させた状態に常に保っておくという条件を満たさなければ、記憶は何れ失われる運命にある。だから若い頃の僕は、重要と思われる事柄は何度も何度も反復して唱え、記憶が大脳皮質に『定着』するまで徹底して覚えるように心掛けていた。

記憶を失うあるいは記憶が退化するのは、記憶の抽斗を度々開けて使い続けていないからである。海馬と大脳皮質の側頭葉との間を継ぐ神経繊維上を、記憶を運ぶシナプスが頻繁に行き来しなければ、やがてその太い神経繊維という大通りは廃れ、新しい幹線道路やバイパス道路(それが記憶が通る道とは限らない)に取って代わられて、いずれ廃道となってしまうのは必定だろう。

これらが記憶がなくなる、あるいは忘れてしまうことの正体だ。幼い頃より壮年まで、他人より抜きん出て記憶力が群を抜いた存在であった、その僕が言うのだから間違いない。

ところでこの記憶のメカニズム同様に、『熱しやすく醒めやすい』のも、僕の特徴の一つである。

 

 

 

という訳で、『常ならぬもの』に対しての好奇心が旺盛で、人並み外れた興味を示すのが僕に取っての常であった。

そして『常ならぬもの』の最たるものは、殆どの者が生きている内に一度ならず経験するであろう、自分以外の人や身近な生き物の『死』だと考えている。

それに『死』は万人等しく不可避だ。たぶんこれに異論のある方はいないであろう。

更に言うならば、『死』と『霊魂』の存在とその関係は、不可避・不可分であろうと考えるのが僕である。

何故ならそう考える根拠というか「よすが」になる経験を、僕はその場に臨場しその正体を見て知って、更に言えばそれに呼応し共鳴し、その結果として全身全霊を以て感応しているからだ。

しかもこうした霊感が発現するのは、身近な者の死に接した時以外あり得ない事も分かっている。

 

そして僕はあの日それを見たのだ。

 


 

 

・・・・・・・・!
 
 
 
知ってました?
 
 
 
あなたの周りにも霊魂がいることを。
 
 
 
〜TODAY'S SERVICE SHOT.〜

波打ち際に立つ!.jpg

 

 

この先は次回。

 

我ながら本題になかなか入らず、話題を引っ張るなぁとは思っている。

これは本意ではないが、本題に入る前に人の心とは何か、心理とは、精神とはと、

改めて考える必要があるのではないかと思い、前置きばかりでなかなかその先に進まなかった。

僕は、霊魂とか心理現象とかスピリチュアルな体験というものを、興味本位で見て欲しくない。

況してやその存在を疑って欲しくはないのだ。

人には見えないものの中に真理はあると僕は信じている。

事実を知り、真実を見極め、真理を希求するならば、まずはすべてを信じることだ。

そのためには我欲を抑え、自我を抑え、自然体になるまで己を律することだ。

然すれば見えないものも何れ見えるようになるであろう。

人には得手不得手があるのと同じく、霊感の有る無しも当然あるので確約はできないが( ̄∇ ̄)

 

<ここで皆さまへのお知らせです>

同シリーズは全10話を予定しているので、残りはあと2話となります。

その後の予定は未定。

もしかしたら別ブログ(SSブログとは限らない)で全く別の話題について書くかも知れません。

しかも『ブログ小説』という形でのお披露目になるかもしれません。

法的な問題があり、事実や真実を書けない場合は、そうした形を借りるしかありませんから。

然しながら、どうであるにせよ、僕は法を遵守することだけは皆さまに今から宣言しておきます。

そして僕は『有言実行』の人です。

 

 

 

コメント(14) 
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コメント 14

夏炉冬扇

思考力旺盛でいらっしゃる。
活性脳ですね。
by 夏炉冬扇 (2023-03-01 07:56) 

たいへー

見えない人に説明するの、大変なのだ。
面白がってはくれるが、理解してもらえんからなぁ・・・
by たいへー (2023-03-01 07:59) 

Enrique

見えないものの方が遥かに重要です。しかしそれを理解するには少々努力を要する。それができるかどうかでしょう。
ただしスピリチュアルはダメですね。
by Enrique (2023-03-01 16:26) 

miagolare

認知症にはなりたくないですねー。
by miagolare (2023-03-02 09:42) 

青い鳥

五感と知覚の違いなどの解説、大変よくわかりました。
有難うございます。
静謐な一日さんに触発され、ユージニアを読みました。
書き出しから最後まで、全編を通じて言葉の使い方をこんなにも吟味している・・・と痛感させられました。
どの作家も言葉を吟味していることに違いはないでしょうが、このユージニアでは顕著にそれを感じたのです。
言葉を吟味なさる点は、静謐な一日さんも同じですね。
あと2回、さぞ読み応えがあるであろうとドキドキしながら水曜日を待っています。
by 青い鳥 (2023-03-04 21:26) 

静謐な一日

夏炉冬扇さん おはようございます。
いいえ、かなり思考力落ちてます。
by 静謐な一日 (2023-03-05 11:51) 

静謐な一日

たいへーさん おはようございます。
見えていても理解して貰えない人もいるので見えないとなれば尚更です。
by 静謐な一日 (2023-03-05 11:52) 

静謐な一日

Enriqueさん おはようございます。
想像する力がないと見えないものは見えてこないのでしょうね。
ところで僕はスピリチュアルな体験とは思っていなくてごく自然なことだと思っています。
by 静謐な一日 (2023-03-05 11:54) 

静謐な一日

miagolareさん おはようございます。
ええ、僕もそう思いますがこればかりは・・・。
by 静謐な一日 (2023-03-05 11:55) 

静謐な一日

青い鳥さん こんにちは。
ユージニア読んで頂けたのですね。
僕は恩田陸の作品の中では唯一の恋愛小説と言える、『ライオンハート』が今のところ一番好きです。
読んだ後の余韻がとても良い作品です。報われない愛のお話ですけれど。。。
ところで次回はちょっと長いかも。乞うご期待!
by 静謐な一日 (2023-03-05 12:02) 

tochimochi

守護霊の存在ですか、私は信じたことないです。
凄い体験をしてこられたのですね。
by tochimochi (2023-03-07 17:13) 

静謐な一日

tochimochiさん こんばんは。
それを体験しなければ信じられないのは当然です。
記事の更新は今夜午前0時です。
是非とも読んで頂ければと思います。
by 静謐な一日 (2023-03-07 20:27) 

bgatapapa

拝見しました
by bgatapapa (2023-03-09 17:50) 

静謐な一日

bgatapapaさん 見て頂きありがとうございます。
by 静謐な一日 (2023-03-22 19:07) 

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