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『屍者の傍らで眠る』〜其の漆 [ゆくすえ]

セブンシスターズ.jpg〜SEVEN SISTERS IN THE TWILIGHT.〜

 

 

 

  

再び恩田陸の小説から言葉を引用しよう。

出典は同じく『ユージニア』だ。

事実は、ある方向から見た主観に過ぎません。

さすが陸さん、「確かにそうかも知れません」と言ってしまいたくなるほど見事な言い回しです。

でも事実って実際にあった事で、誰の目から見ても考えても、けっしてそれを否定できないものだと僕は思う訳です。主観は十人十色ですから、答えが違っているのは当たり前田のクラッカー。

だから事実は、主観の数だけ答えがあるのではなく、たった一つです。

それに、そもそも事実というものは『客観的事実』とイコールであり、見る人によって否定されたり肯定される『主観的事実』などこの世には存在しないのです

ゆえに認知バイアスというか主観を通してみたものは、それはもう事実とは呼べない代物です。

僕が思うに恩田陸は、登場人物のこの男性の言葉に事寄せて、本当は「ある方向から見たに過ぎないものは主観であり、それは事実とは呼べない」と意図的に語らせているのだと解釈しています。

・・・あのね、少しは言葉や文章の裏に隠された作者のギミックを読んでくださいね。小説は作者の思惑や主観の塊なのですよ。なので言葉を額面通りに受け取るようでは、本読み(読書家)の醍醐味と楽しみを半分放棄したようなもの。

特に推理とかミステリー小説は額面通り受け取っては作者の意図に見事に騙されてしまう。まあそういう読み方も否定はしないけど、それってただのミーハーじゃないかと思うわけ。だから本読みを自認するなら、素直に読んじゃいけないんです( ̄^ ̄)※客観的な文章を見たいなら論文でも読めばいい。

ついでに言えば『真実』もそう。

推理漫画の『ミステリと言う勿れ』(田村由美 作)では、

真実は人の数だけあるんですよ、でも事実は一つです。

と主人公久能整は饒舌に語るのですが、これも違うなぁと僕は欠伸をかみ殺しながら思う訳です。

真実の解釈として一番正しいのは、新明解国語辞典【第八版】の同項目の記載にあるように、あらゆる点から見て、それだけが偽ったり 飾ったりしたところの無いそのものの本当のすがたであるとらえられる事柄(様子)だと思っています。

つまり微に入り細に入り、あらゆる観点から矯めつ眇めつその対象物(事象)を眺めていき、そうして贅肉という贅肉を削ぎ落として最後に残った、その根底にある誰が見ても変わらない根源的本質だけが『真実』だと僕は思うのですね。えっ、長ったらしくて理解できない。

じゃあ、僕流の言葉で分かりやすく例えます。

人の思惑や感情から生じた修飾語を、全て取り払った主語と述語だけの素の状態にしたのが真実。

・・・ということになります。え〜〜〜っ、ますます分かんなくなったぁ。

あのね、僕は付いて来られない人に何度も手を差し伸べるほどお優しくはないのだよ(爆)

もし違うと思ったら反論頂いても結構!(*´∀`*)・・・僕は反論大歓迎!

話を元に戻します。

しかし大概の人は、心に濁り無き状態で目の前の事象を見たとしても、直観で得られるのは事実までだと僕は思う訳です。根源的かつ本質的なもの、つまり真実は霊感と霊魂の導きが無ければ、その糸口すら見いだせないというのが実情ではないかと考えています。

だって僕が見る限り殆どの人は嘘を嘘と見抜けない。欺瞞と偽善をお間抜けなほど見抜けない。

却ってそんな似非インフルエンサーや、アクセス数トップブロガーを崇拝までしちゃってるわけ。


俺ガイル.jpg


事実と真実の意味、そしてその解釈・・・。

なぜこんな話を冒頭に持って来たかと言えば、霊魂の存在がいつの時代であっても、洋の東西も老若男女も問わず人口に膾炙するのは、或いは現世に措いても多くの人の中に霊魂の存在を信じ、感じる人達が一定数いるというのは、たとえそれがエビデンスが得られない事象であったとしても、それこそが事実であり、延いては真実であると確信しているからなのです。

古今東西どの社会でも世界であっても、『霊魂が存在する』というお話が連綿と絶えることなく伝承されて来た事実は、それ自体が霊魂の実在を何よりも物語っており、それこそが見えないながらも、たとえ理解の範囲・範疇を超えていたとしても、それでも尚霊魂の存在を証明していると僕は思い、尚かつ確信する訳です。


つまり存在を否定しきれなければ、『それは紛れもなくそこに在る』と考えるのがごく自然です。

 

さあここからが本題。

 

心霊現象や神秘体験といった超常現象を見たと話すと、大概の人々は眉に唾して話を聞くものだ。

まあ現実的にそうした体験を再現することは不可能であろうし、霊魂は殆どの人は不可視だから検証出来ないし、再現性もなく検証性も不可能となればこれはもう『科学ではない』と断じる人が殆どではなかろうか。

だがそれ(霊的存在を証明できない現実)が事実であったとしても、有史以来、霊魂の存在は洋の東西を問わず、ずっと絶えることなく語られて来たのもこれまた事実。つまり科学万能の現代社会においても、それを一概に否定も肯定も出来ないのが現実であろう。それに大概の人は、霊魂と、霊魂が存在するという死後の世界を見てはいないし、もしいたと仮定してもそれを客観的事実を以て証明できないのが正直なところだ。

然しながら、存在を否定はできないが、逆に存在を証明するものもないとなれば、それは研究の対象であり科学的興味あるいは関心事の範疇である。

故に古来から心霊現象に関わる研究は数限りなく為されて、それこそ天文学的な文献や書籍が記され発表されて来た。まあ興味本位の書籍雑誌の方が、悪貨は良貨を駆逐するの譬えよろしく、遙かに学術的専門書を凌駕してはいるが・・・。

しかしそれでも尚、神秘現象や幽霊や霊魂の存在は人文科学の一分野として明確に存在している。


夕の叢雲.jpg 

『我思う、ゆえに我あり』

 

デカルトではないが、人々が霊魂の存在を懐疑的に見て幾ら否定しようと試みても、その存在が懐疑的だと思っている自分が在る以上、その時点でそれを思う自分の存在を認めたことになるのだから、自分の存在と同じく霊魂の存在もまた到底否定しょうがないのである。

アハハ、また人を惑わすエセ哲学的な言い方をしてしまった。それにこれ禅問答かよ!!!

しかし科学万能社会の現在でも、今以て誰一人霊の存在を否定も肯定もできないのは事実だろう。

皆はそれでも尚、霊魂の存在を信じられないかもしれないが、それが証明できなからといって、

『それが科学的でないと断じるのは科学的ではない』

という真実を皆さんは肝に銘じるべきであろう。

コペルニクスが『地動説』を唱えてからも、3世紀以上もの長い間、人々や宗教界は天動説を信じて疑わなかった事実が何よりもそれを物語っている。地動説は16世紀半ばの発表だが、カトリックはおろかプロテスタントまでも当初それを否定し、ローマ教皇庁はニコラウス・コペルニクスの著書『天体の回転について』を17世紀初頭に<禁書目録>に加えたほどだ。

 

人間とは、自分たちの持つ価値観や固定観念を、容易に変えられない生き物だ。己の根幹をなす思想や概念を変えることによって得られるものより、失うことの方を遙かに恐れるが故だと思う。つまりここでも人間は情動に基づいた主観から離れられず、理性に基づいた論理的かつ客観的な事実を直視すること能わず、況してや真実に至れない愚かな生きものなのだ。

ちょっとセンテンスが長すぎて、尚かつ読点も多かったから、分かりにくかったかな。まあ理解できないならそれでいいけど、僕はこれこそが『無知』の正体だと思っている。つまり無知と頑迷と保身はセットだ!

 

話を元に戻そう。カトリックの総本山、ローマ教皇庁が公式にこの地動説を認めたのは、何と19世紀になってからというのだから、人間は如何に新しい説(人々の考えを一変させてしまうような事象、あるいは理論・学説)を受け入れがたい愚かな生き物であるかが、これで分かろうというものだ。

その事実は科学万能の現在に措いても然り。それからすると『コペルニクス的転回』とは、頭では理解していても人々の心の内には容易に受け入れられない概念だ、というのが現実というものだろう。

人々は科学的に立証されるされない以前に、感情で物事や事象を判断し、理解できないものは拒絶するか無視するのが常だ。経験もなく自覚すらできいないなら尚更だろう。糅てて加えてそれでも尚信じない頑迷な人々は少なからずいる。そのように、自分の理解の外にある存在に対する拒絶感は、理性的且つ科学的好奇心に勝るのが常だ。

しかしそれは自己保存の法則にも反した誤った行動であると僕は断じよう。知らないことを、知らないままにして置くことは、己の身を危うくしかねない。これこそが真実!

ところが現実の世界では、それと真逆のことが繰り返されている。

例えば、ドイツでは科学者や著名な知識人ですら何ら科学的根拠もない『陰謀論』を唱えて逮捕された。ドイツばかりか『陰謀論』発祥の地である米国を中心に、世界中で物議を醸し出している事実を知らない者は少ないであろう。

しかし、この『陰謀論』の科学的根拠を示せと言ったらそれこそ誰一人それを証明できないであろう。それでも世界中で、そして欧米かぶれの日本人の過半もそれに靡いて、『陰謀説』を信じて話題に載せ人口に膾炙するのだ。

何一つ科学的ではない、情動そのものである『陰謀説』をね(o゚▽゚)o

僕に言わせれば、皆バカに見えてしょうがない。幾ら学歴や知識があろうともね。

その僕だが、前述の通り好奇心旺盛で、知らないものを知らないままにして置けない困った性格の持ち主だ。良くいえば探究心旺盛、悪く言ったら真理を見極めるまでは諦めない「しつこさ」が僕の特性であり個性なのだ。

ところで『知らないものを知らないままにして置けない』というのと、『遣られたら遣り返す』は、何だか同根であるような気がするのだが、これは果たして僕だけが思うことであろうか。僕はすべての事を宙ぶらりんのままにしておけない困った性格なのだ。

だから僕には、「これはひとまず置いておいて、次に取り掛かろう」などと思う以前に、そんな不埒な行いはそもそも出来ようはずもない。なにしろ僕が僕でなくなってしまう( ̄∇ ̄)

 

これは上記に関連した(笑える)余談だ。

思えば高校まで、試験の度に僕は全ての問題を淀みなく解いていった。しかも30分以内にすべて回答するのを旨としていた。当時の試験時間は大概50分だったが、30分経てば試験を監督する教師に答案用紙を渡して、教室から出て良い決まりになっていたからだ。

しかしある日、全く知らない設問が、試験の最初の方に出題されていた。僕が風邪で休んだ日の授業で出たものであったらしい。

教科書にも記載のないその事を誰も僕に教えてくれなかったのは、僕はクラスの中で浮いた存在でもあったからのようだ。僕はいつ如何なる時も孤高の人なのだ。つまり今風に言えば『ボッチ』な存在だった訳だ。

まあそんなことはどうでもいい。

僕は普段から予習復習はしない。宿題もやって来ない。しかし成績は良かった。なぜなら授業だけは真面目にかつ真剣に聞いていたし、分からないままに授業を終えることは決してしなかったからだ。

つまり授業を受けなかったからその設問を解けなかったのだ。

しかしこの時ばかりは、分からないことをそのままにして置けない性格が徒となって、それ以降の過半の問題に手を付けることが出来なかった。それで高校に入って初めて赤点を取った。

次週その教科の教師が答案用紙を返す授業の冒頭で、本来は出席番号順に答案用紙を返されるはずなのに、僕の名前だけがなぜか呼ばれない。

「あの〜、僕の名前呼ばれてないんですけど!」と言おうとしたら、、、

「赤点を取った者が一人いるので、それを今から返そう。〇〇君前へ」

てな次第で、僕の名前が呼ばれた。

そして普段から冗談一つ言わない、「苦虫先生」と僕が渾名したその物理B担当の老教師は、いつものように顔色一つ変えずに真顔でこう宣った。

「次の期末試験で80点以上取らないと、君は留年だからその覚悟でしっかり勉強するように」

名前で呼ばずにこの教師は誰でも『君』と呼ぶ。僕はそういう呼び方も嫌いだったが、それよりも何よりも説教臭いのが大嫌いだ。自分の考えを押しつけるな、と言いたい。

この教師もその類いだった。何のことはない、普段から『質問魔』である僕への意趣返しである。高校二年生の分際で、教師の話に、しかも専門分野の物理Bの説明そのものに異論を唱えて楯突いた過去が、この教師には殊の外腹立たしかったのかもしれない。たかだか十六七の小僧に面子を潰されたという訳だ。

僕は内心ではそう思ったが、敢えて無表情でその声を聞いた。

だがクラスメイトの反応は違った。

普段は取り付く島もなく、一分の隙すらもないこの僕の為体に、ここぞとばかりにどっと笑ったのである。いやはや愚昧なクラスメイトはこれだから困る。

だから僕は間髪容れず、こう返答をした。

「ああそうですか。だったら期末テストで百点取るって今ここで宣言しますよ。僕満点取ります

 

この手の話は中二以来、久々の二回目である。それに売られた喧嘩は買う主義だ。

対するこの教師、人を見る目がないから、バカにした目で僕を見ていたけれどね。

あれはどう見ても『出来っこない』という顔をしていたね。これだから俗人は嫌いだ。

人間遣ろうとすれば過半のことはできてしまうもの。

殊に僕に限って言えば、目の前の壁が高ければ高いほど、人一倍燃えるタイプだ。

 

以来しばしの間、僕の渾名は「100点満点」、或いは「僕満点取りますだってよ〜」になった。

ところで結果はどうなったの? そう聞きたそうだね(*´∀`*)

僕は『有言実行』の人である・・・がその答えだ!

 

因みに、これまでの人生の中で一番勉強したのは、この時が最後であった(爆)

不正な行いを目撃した時とか、理不尽な事をされた時以外は、テキトー〜〜〜( ̄∇ ̄)

という次第で、普段の僕はONの時より、OFFの時間の方が圧倒的に長くかつ多い。

つまり基本、怠惰、自堕落なのである。

ところで人をその性質で分けると、官吏型と軍人型に二分されるという。

だとしたら僕は軍人型だ。

普段から訓練は怠りないが活躍できるのは有事のみ。

平和が続く限り出番はない、つまり普段は『無用の長物』である。

そのように、僕の真価を発揮する場は極端に少ない。

糅てて加えて、悪目立ちする『遣られたら遣り返す』かつ『けして諦めない』という、

困ったちゃんな性格は終生直りそうもない(@^▽^@)アハッ!

 
  
  
・・・・・・・・!
 
 
 
知ってました?
 
 
 
あなたの周りにも霊魂がいることを。
 
 
 
実は恩田陸の『ユージニア』、まだ第四章「電話と玩具」の前、全体の1/4しか読んでいない。
故に完読したいので、中途半端なお話となってしまいましたが、今日はここでお終いとします。
最近つまらぬものに気が散って、大好きな小説さえ一気読みが出来なくなった。
人並み外れた集中力と怒濤の一気呵成が取得の僕から、それらがなくなったらお終いかも知れぬ。
いつもながら脱線気味のお話ばかりでゴメンね。
いつになったら心霊体験や霊魂の話をするのだという、声も聞こえて来そうだがしばし待たれよ。
次回こそ、その話ができそうな予感がする。あくまでも予感だけど悪寒じゃないから多分大丈夫!
 
ではではご機嫌よう。
 
 
 
〜TODAY'S SERVICE SHOT.〜

天城辺りに沈む夕陽.jpg

 

 

この先は次回。

 

 

 

コメント(52) 
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『屍者の傍らで眠る』〜其の陸 [いま]

2023/02/20 ・・・本文の後に2つ追記しました。

まるで対岸の火事.jpgIt's like a fire on the other side of the bay.日本語に訳すなら『まるで対岸の火事のよう』 

 

 

直観の鋭い人は霊感も強い。

 

自分の事だからそれがよく分かる。

 

そんな僕にとって、人の評価の殆どは、初見の心象と心証で決まってしまう。

皆もそうかもしれないが、僕の場合は見た目といった外因や湧き出た感情で判断する訳ではない。

つまり外見や伝聞で人物を判断はしないしそれらに影響を受けることもない。

しかし、もし平常心(中庸)が保てない心境にあれば僕はそこで見定めを止めてしまう。

僕の心に映ったその為人の印象に基づいて決まるのだから、雑念がそれを妨げるとなれば当然だ。

故に評価にバイアスが掛からないニュートラルな状態で為人の印象が脳裏に焼き付けられる。

外見や感情に囚われないと言ったが、例えば僕は人の見た目の美醜に囚われたことはない。

美しいものに憧れはある。だが眉目秀麗或いは明眸皓歯な人が心まで美しいとは思わない。

むしろ容姿が人並みか凡庸か、或いは劣っていると思われている者の中に、

本当の美しさを見いだすことさえある。心の有りようは容姿に必ず顕れるものだからだ。

だから、この世で最も美しい人は、心の清らかな人であると思っている。

その、心の清らかな存在を識ることが出来る人もまた、心に濁りがない人だといえよう。

 

それからするとハロー効果に幻惑される人は、結局は幸せを掴んだり心の平穏を得るには程遠い。

一刻も早くそうした認知バイアスなどに陥らない、心をニュートラルにする術を会得すべきだ。

その早道は一旦自分を捨て去ること。

然すれば認知バイアスから解き放たれたことを人は知るであろう。

そうなれば人の書く文章や声色や挙動等から、直観的にその為人を判断するのは造作もないこと。

会わなくても書く文章だけで本性を見抜いてしまうことさえある。それもほぼ的確に!

これは心に濁りのない、霊的なものを介しているから、感知できるのだろうと思っている。

まあその僕でさえ、時に心が濁ることがあるけどね。その大概は我欲が生じた時と理解している。

だからこそ心をニュートラルにし、清らかな状態に保つよう要所要所で心掛けなければならない。

この心をニュートラルにとは『中庸にして過甚ならず』ということ。※意味は自分で調べてね。

 

しかし残念ながら世の中の過半は、清く正しく美しいものとは程遠いのが実情である。

貪欲、策謀、怨嗟、嫉妬、欺瞞、虚偽、虚栄、後悔、嫌悪、恥辱、軽蔑、優越感と劣等感。苦悩、

憎悪、懊悩、煩悩、諦観、絶望、虚無感、 etc・・・。

そんな負の感情が、心の平穏や幸福感や充足感を、人々から遠ざけているように思えてならない。

全てが心の有りよう、持ち方次第で良くなる事も知らずに、今日も人々は欲望に突き動かされる。

過半の人々は、日々そんなつまらないものの所為で、日々右往左往している。

 

その様な現実を幼い頃から見てきた僕は、人の醜さを嫌というほど見せつけられてきた。

正に被害者一辺倒であった幼少期と少年期を過ごした僕なのだから尚更であろう。

だからこそ不正や欺瞞や虚偽の臭いを嗅ぎ分ける能力は人一倍あると自負している。

それが過半の人には見抜けなくとも、僕にはそれを鋭敏に感知する能力があるし、

その者の放つ言葉とそれに伴う行動が、僕の理解を超える得体の知れない何かによって為された、

と推測されるならば尚更のことそれを座視できず、是が非でもそれを知ろうとするであろう。

以来パブリックとプライベートの別なく、僕は数多欺瞞や虚偽をそうして暴いてきた。

 

しかしそれは結果でしかない。

 

元々人々の嘘や人を欺き騙す行為を暴こうなどという動機でそうした訳ではないからだ。

すべて未知なるものを知りたいという根源的な好奇と探究心と自己防衛本能ゆえの言動だ。

だから得体の知れないものを見ると不安や恐怖心に駆られるどころかその真相に迫りたいと思う。

そうした経験から得た真理の一つを僕は知っている。

 

どの様なものであろうとも、それから逃げようとすれば、逆に追いかけられるものなのだ。

 

世の中のそうした真理をどうして多くの人は見抜けないのだろう。

だからこそ僕は、事実を積み重ねて真実に至るまで、追及あるいは探究を止めることはない。

 

何度も言うが、は知らないことを知らないままにはして置けない性分なのだ。

それは元来好奇心が人一倍強いだけでなく、不知が後々自分に災いを為すと知っているからだ。

僕の経験則からすれば、不知であることは無知であることと同義である。

故に僕にとって、不知と無知は、罪であるとさえ言える。・・・だから何度でも言う。

僕はそうした風潮に棹さし、流れに逆らい生きていこうと思っているし、これからもそうだろう。

 

僕をそうせるのは、不条理で不公正で理不尽なこの世界が許せないからだ。

長い物には巻かれてはならない。その正体を知ったなら、不正や悪意からは遠ざかるべきだ。

だからこそ、世の中は清廉潔白でなければならない。

人々の心は美しくなければならないと、思い、願い、信じるのだ。

 

たとえ世の中がそうでなくとも、否、そうではないからこそ、そうありたいと切望する。

 

ところが世の中の大半は、僕とは真逆に出来ているらしい。

臭いものは蓋、長いものには巻かれ的な風潮、座視やネグレクトが当たり前になっている。

だから僕は、そういった過半の風潮に棹さす者として、逆に皆からは疎まれ白眼視される。

つまりムラハチブという訳だ。それからすると僕は到底皆には理解されない存在であったらしい。

 

だから前号の恩田陸のユージニアの一節のように、僕自身が彼ら彼女らから理解できないもの、

時にはあやかしのようにも見られ、僕の言動に対してまるでメビウスの帯の如く表裏もなく、

それこそ際限すらもなく、見て見ぬ振りが繰り返される。

であるから、問題児扱いされて疎まれることは幼少期はそれこそ当たり前だった。

それからすると、人間とは元来が異質なものを恐れ、遠ざけたいと思う生き物なのだろう。

つまり僕という素の存在は、いつまで経っても皆のいる世界の外に在る者として認識され、

その為人は正しく理解されないし、当然ながら受け入れられもしないだろうし、

僕と彼我(皆さんのこと)との意識の乖離はそうそう埋まることはない。

 

と言いながらも元来がそうだから、今さらそれを嘆くこともない。

況してや皆から今さらながらそれを理解して貰おうとも思わない。

理解して頂ける方が一人でもいればそれで御の字と考えている。

 

という訳で、僕が皆とはちょっと違った考えを持ち、常人には見えないものが見えると言い、

ひと様から奇異に思われる切っ掛けとなった体験について、お話ししようと思っている。

それは確か小学三年の晩秋の頃、父方の祖父の訃報を聞いて里帰りした時のこと・・・。

 

 

 

と言いながらそれは今回ではなく、次回までのお預け・・・(*^_^*)

 
 
 
・・・・・・・・!
 
 
 
知ってました?
 
 
 
あなたの周りにも霊魂がいることを。
 
 
 
知っていますか?
 
 
 
本当に美しいものには棘も毒もないことを。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
心を中庸に保ち、霊的なものを識るか知らぬかで、この世のすべては変わってしまう。
 
 
 
然すればあなたも、霊魂を目の当たりにし、それを信じれば心の平穏を取り戻せるであろう。
 
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 
<2023/02/20 9:20 追記>
 
先週金曜日だったか、78歳の男が次々と前方の車やバイクに追突し、そのまま当て逃げした『事件』があった。それに関連して僕の考えを述べたいと思う。
とは言っても事件のことではなく、日本語の乱れについてのお話だ。
 
まずは事故の話。
 
これは明らかな連続追突事故であり尚かつ人身事故だが、78歳の被疑者が逃げた時点で事故ではなく『事件扱い』となっているはずだ。当人は「記憶にない」と言っているという。
しかし映像を見る限りにおいて推測されるのは、あれだけの衝撃がありながら記憶にないことなどあり得ないということだ。
 
認知症を疑う人もいるだろうが、もしそうであれば衝突した部位以外にも、車体には車庫入れ時などの擦過傷とか傷がついているのが普通で、事故部位以外目立った傷は見当たらないというのだから、パニック状態に陥っていたであろうことは容易に想像できる。
 
しかしパニックに陥ったのは、たぶん事故後車が一旦停止した後だと推定される。追突を繰り返してようやく停止した後も、前輪は数秒間空転してづけていたことからも、初めの追突以降もアクセルは踏みっぱなしだったことが映像を見れば分かる。
数台に追突した後に車が止まり、そこでようやくタイヤの回転が止まっていることから、パニック状態になったのは、その後だということもそこから容易に想像できる。
 
それに現場にはブレーキ痕がまったくなかったという。そこから言えるのは78歳の男が前方不注意で起こした事故だということだ。そして追突後もアクセルから足を離さず踏み続けていたからこそ起こった事故と言えるだろう。ブレーキ痕が初めから一切ないということは、恐らくはブレーキとアクセルの踏み間違いではない。
 
78歳の男にとって、この一連の出来事は恐らくはあっという間の出来事だったのだろう。そしてようやく車が停止して、そこで初めてパニック状態に陥ったと考えるのが妥当な推測だと考える。ゆえの「記憶にない」発言だと僕は思っている。
 
ところで僕がこの『事件』を取り上げたのは、追記の冒頭にも書いた通り、事件そのものについてではなく、『日本語の乱れ』について皆さまにお伝えしたかったからだ。
私が見たのは民放のモーニングショーだが、例によって例の如く、78歳の男のご近所の住人に、78歳男の普段の様子をインタビューしていた。
そこで近隣の住人(この方も70代)が言った言葉が適切ではなかった。
 
「<前略>普段はとても温厚な人で、とてもこんな事をする人だとは想定していませんでした」
 
え〜〜〜〜っ、『想定』???
 
70代でもこんな言葉の間違いがあるのかとちょっとビックリ!
たぶん「想定内」などという言葉が流行りだして以降の話なので、その影響を受けてのこの発言なのでしょうが、そもそも想定とは、「あらかじめ(仮に)条件や情況を思い定めておくこと」なんですよ。
インタビュー映像を見る限り、「思いも拠らなかった」という意味で話しているのだから『想定』など出来ようはずもない。それなのに『想定』って一体何?・・・てな感じです。
敢えて言わせて貰うならば、喜寿近くにもなって、未だに日本語の使い分けがまともにできない方がいらっしゃる事に、ただ驚くばかりです。
ここは「思いも拠らないことでした」とか、<想>という言葉をどうしても入れたければ「想像できませんでした」、または「想像に及びませんでした」、あるいは「想像すらできず唯々驚くばかりです」と言うような言葉遣いが、適切というか言葉の選択肢とて妥当だったのではなかろうか。
 
これを見るにつけ、今や日本人の過半は、その場に応じた言葉の適切な使い方を知らないなと思うのですね。これで、これからの日本人、本当に外国語の習得などまともにできるのかなと首を傾げてしまう僕でした。
 
だって、母国語である日本語さえまともに使えないんですよ( ̄∇ ̄)
 
 
<2023/02/20 14:05 上記追記に関しての再追記>
 
先ほどまで食料品の買い出しで外出しておりました。
 
その外出中に思ったことがありまして、それを追記したいと思います。
『想定』という言葉がなぜ発せられたのかとつらつら考えるに、これは僕が以前に述べた「認知バイアス」の一種である『ハロー効果』そのものなのではないかとふと思ったのですね。
 
西暦2005年当時、「想定内」という言葉がかのホリ〇モンの口から発せられた時、この言葉は流行語大賞まで取ってしまったほど、流行った言葉でした。それ以降この言葉は、ホリ〇モンという人物と共に『ハロー効果』に因ってすっかり市民権を得たように思います。
 
もう言わなくても分かりますよね。多くの人々の頭の中にこの『想定内』という言葉が刷り込まれたことが、ひょんな事から思ってもいない場面で口を衝いて出てしまうことは往々にしてありそうに思えます。それこそ『想定内』なのではないでしょうか。
 
だから本来は「想像できない」と言うべきところ、「想定できない」と言ってしまったとも受け取れる訳です。なにしろ現代の日本人の認識の過半はバイアスが掛かっていますし、その自覚症状さえないのが、当たり前になってしまっていますから。
 
もちろん可能性としては、被疑者である78歳男性の近所の住人が、インタビューを受ける際に、意図的にそんな言葉を使った可能性がないとは言えないのですが、その可能性は低いと言わざるを得ません。それにそんな見方をごくフツーの感覚をお持ちの方はしないと思います。
 
ところで、どこぞのお〇カな学習〇経営者が、こうした己の一見識もない『捻くれた見方』を、『これ(自分の考え)は穿った見方でしょうか?』などと書いて、ある意味自画自賛しているのを以前お見かけして、「ああ、これこそ〇カ丸出しだなぁ」と思った僕でありました。
 
なぜこのお方を、そう思ったかと言えば、大した長文でもないブログの記事ですら、普段から誤字脱字が絶えず、用法など時に支離滅裂で〇カ丸出しだったからなのですね。
 
例えば昨年11月の記事ではタイトルからして日本語として間違っているのだから、これで教育者と言えるのかどうか、甚だ疑問に思うわけです。教えられる子どもがかわいそうかどうかは知りませんが、少なくとも間違った国語教育をする確率は大と言えましょう。
 
では昨年11月のこの方の記事についてお話ししましょう。
 
このお方によると、『ついに立〇〇主党も「与ゆ党体制」に組みする。』と言うことらしいです。
 
このタイトルを見た瞬間に僕は失笑しました。日本語の適切な用語も用法も知らずに使うとは相変わらずだなと思ったからです。
 
もしかしたら、このブログに行ってコメントしている人達って、『〇〇に組みする』というタイトルを見ても何一つ疑問に思わない人が過半だという事なのでしょうか。もしそれが事実だとしたら、現代日本人の言葉遣いは変化しているのではなくて、崩壊しかねない情況にあるといえるのかもしれません。
 
この表記は、本来であれば『〇〇に組みする』ではなくて『〇〇に与する』と書くのが正しい言葉遣いです。そこに言及した常連ブロガーが誰一人いないという事は、そんなことも分からないこの方とその取り巻き連中ご一行さまの認識ということなのでしょう。これは重箱の隅を突いた訳ではなくて、この方の本質的な問題について語っていると認識して下さいね。
 
ところでこの「与ゆ党体制」という造語も、いつもながらこの方お得意の他から持って来た付焼刃的知識でした。それによれば、政治学者の中島某さんなる者が、野党の一部が「や党」と「よ党」の中間に立って、与党の政策に協力していく体制を、「野」と「与」の中間だから「ゆ党」と名付けたとのことでした。
 
(僕のこの書き方の方が、この方の記事の説明より、よほど分かりやすいとは思いませんか!)
 
しかもこの言葉を軸に、実に珍妙な我説を開陳するに及んで、失笑する他はないわけです。
何せこの学習〇経営者の記事の中に挿入された、荻上某が書いたという<野党の仕事は「反対すること」>なる論考の引用部分には、出典元のリンクさえないのです。これは明らかに著作権法違反です。原典にどの様なことが書かれているか検証すらできない状態で引用することはそもそも法律上禁じられているのです。
 
知っていました???(皆さんも往々にして遣っていることなので注意しませう)
 
それにこの論考、おかしな言葉が一杯出て来る。その検証すらされずいつもの様に、己の拙い考えを補完するために、何の批判もなしにただ垂れ流しているだけ。真っ当な論客なら、幾ら自説に近い意見であっても、そのまま引用することなどあり得ない。ここには批判精神などまったくない訳です。
 
事実、自分の珍説・駄文に、権威付けあるいは正当性を持たせるがための違法な引用ですから、そこに初めから批判精神など発揮しようもない訳です。だから駄文だと僕は言っている。
 
こうした事実から分かるのは、コロナワクチンに関連した、多くのフェイクニュースを垂れ流したあの時と、こうした引用の情況もこの者の認識も、それこそ何一つも変わっていないことがこの記事を見ても分かってしまうのですね。
 
それを如実に示している箇所を2点のみ(全部取り上げたらキリがないから)抽出してみました。
 
>国民に対して代案を提示するのと、議会において代案を提示するのとでは役割が異なるのです。
 
そもそも日本では「議会」などとは言わず「国会」と称するのが普通。一事が万事、それだけで読むに値しない論考だと僕なら思います。小説だって初めの1ページ目に誤字脱字があったら読む気がなくなるのと同じです。
 
それにこんな駄文というか迷文までありました。
 
>(前略)だから野党というのは、最悪のパターンを想定して反対することが大事な役割となる。
>むしろ、賛成ばかりする野党では、存在意義がありません。重箱の隅を突くくらい、
>慎重に法案に「ツッコミ」を入れることで、(云々)
 
僕の目から見たら、この学習〇経営者さんと、この論考の主である荻上某が、『想定』の使い方や、『重箱の隅を突(つつ)く』の意味とか、『慎重に』の用法を真に理解して使っているとは到底思えない訳です。
 
そもそも『重箱の隅を突(つつ)く』とは、ものごとの取るに足らない部分に注目し、難癖をつける事を指す言葉です。そんなことが野党本来の仕事だと認識しているとしたら、この学習〇経営者さんと論考の主である荻上某こそ、本当に大した見識だと僕は思わざるを得ない訳です。
 
だから<慎重に法案に「ツッコミ」を入れることで、>などという、「慎重」と「ツッコミ」という相容れない言葉を一つのセンテンスに入れるという、珍妙で姑息な表現にならざるを得ないという事でしょうか(爆)
 
という様なことが、この教育者の思想(と呼べる代物ではないと断じますが)の根底にあるのは、一見して時の政権や世間を批判しているようでありながら、実は中身が空虚で説得力も何もない浅薄な考えに基づく作文程度でしかない訳です。だからこそ非難や誹謗中傷に堕してしまうしかないのでしょう。
 
僕が思うには・・・
 
この者に根本的に足りないのは、「反対する事」ではなく「批判精神」だと断じましょう。
 
そう思うのも当然です。この学習〇経営者さん、一昨年の末の『僕のお友達の批判コメント』に対して、「批判は許さない」、「気がつき次第すぐに削除します」と大見得を切って捲し立てていましたからね。
 
しかも削除するその理由が「気に入らないものは気に入らない」「消せる機能がある以上消してどこが悪い」程度のまさに小者振りを大いに発揮していました。
僕なら、相手の主張が間違っていると思うなら、相手のコメントを削除などせずに、堂々と論破しますよ。結局、後ろめたいところがあるとか、己の欺瞞や偽善振りが明らかにされるのが恐くて、消さざるを得なかったのだと思います。
 
だから批判を許さないと大見得を切ったり、僕のお友達が大声で恫喝したとか、実際ありもしない絵空事を並べた立てて、何も知らないブロガーの同情を託ち、しかも仲間に引き入れて、相手を非難し誹謗中傷した訳です。
 
この経緯を見るにつけ思うのですが、これって批判と非難の区別さえつかないお粗末な認識ですよね。
 
それに「批判はゆるさない」って、まさに狭量な小人物根性丸出しじゃないですか。
 
まともな人ならそんな主張、誰一人耳を貸しはしませんよ。でもSSブログじゃ貸しちゃう人が実際にいるところを見れば、まともな人はこのブログに出入りしていないのかも知れません。
 
だから真っ当な見識に基づいた「批判」を『誹謗中傷』だとか『名誉毀損』などとしか受け取れない訳です。しかも自分は一家言の持ち主だという誤った認識をお持ちのようで、他人様の意見を素直に受け入れられないのだと思います。
 
それゆえの「批判は許さない」発言なのです。本当にケツ目処の小さきお方ですこと。
 
だからこそ僕は、この者とそのお仲間常連ブロガーは、本当にお〇カだなと思うのです。
 
ついでにお伝えしておきますが、知ったか振りで専門外の事柄をテーマに書く愚かさを、ご当人は知るべきだろうと思う。それに違法に他者の著作物から違法に引用し、己の拙さを糊塗するいつもの遣り口がいつまでも通用するとは思わない方がいい。
 
僕が思うに、この学習〇経営者がブログで書くべきは、そのブログタイトル、学習『〇経営の〇〇から考えるBLOG』とあるように、教育に限って書いた方が宜しいのではなかろうか。
 
例えば、専門外のしかも政治や政局などを語るという分不相応なこと止めた方が良いと思う。遣っちゃいけないとは言わないけれど、遣るなら遣るでもっと本腰を入れて、時間を掛けてもっともっと掘り下げた上で書くべきだと僕なら思うのですね。しかも他者の論考を違法に流用したりといった、「他人のふんどしで相撲を取る」ようなみっともないことをするのではなくて、そのテーマについての自分の考えをしっかりと持った上で、初めて言葉にしたり文章として公開すべきだと思うが如何?
 
今まで同様、日本語をまともには使えないとしても、それなら誰も批判などしないであろう。
 
<追伸>
 
僕もリンクを貼らないで引用しているから、著作権法違反なんじゃないのと思う方のために、そうではないことを説明申し上げましょう。
 
まず第一に、この教育者の当該記事には原典にリンクが貼られていないのだから、検証もしようがないのでその時点で僕は引用を諦めました。つまりこれは私の『仮説』として、読んで頂こうという趣向です。
 
こうして誰が書いた文をかを明らかにしていない上に、この記事が誰かを貶める目的で書いていない以上、「これは架空の出来事を前提として書いたもの」と皆さまに捉えられても良いと僕は考えて、この追記を書き込んだ次第です。
 
以上です。
 
 
〜TODAY'S SERVICE SHOT.〜

寝そべって夕日鑑賞.jpg

 

このお御足は誰のもの?

 

 

 

 

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『屍者の傍らで眠る』〜其の伍 [来し方]

無題1.jpg〜THIS COLOURFUL HAT IS IN THE NIGHAT.〜

 

 

恩田陸の代表的なサスペンスミステリー小説、『ユージニア』(角川文庫刊)を読んでいたら、

 理解できないもの、理解を超えたものに出会った時、人はどうすればいいと思う?
 拒絶するか、出会わなかったふりをするか、怒るか、恨むか、嘆き悲しむか、呆然とするか。予想される反応はこんなところかな。

そんな記述があった。

「ああそうだよな」と思う反面、実際のところ得体の知れないものへの拒否感や、忌避感が僕には一切

ない。そんなところがフツーの人とはちょっと感覚が違っているのかも。

そもそも未知なるものへの恐れよりも、「いったいこれは何なんだ!」と逆に懐疑的興味を持ってしま

い、(過半の人々とは真逆に)より一層得体の知れない対象に近づいて行き、その正体を見極めようと

することの方が多い。

それも圧倒的に!・・・好奇心というか探究心が、恐怖心よりも遙かに勝っているのだろう。

言うなれば人の心の奥に潜む、あるいは隠された本性というものに、人一倍敏感に感応する感じがした

ものだ。それは一言で言い表すならば『直感』と呼べるものだが、山勘のようなまったく根拠がない

代物ではない。

これを言い換えるならば、

「その時は知覚している訳ではないが、それが後になって経験から導き出された勘のようなもの」

だと実感している。

であるならば、恐らくこの感覚とは、直感ではなく『直観』あるいは『直知』であろう。

つまり思惟を経ずに精神にダイレクトに作用して、真実や本質を見抜く直截的な能力である。

殊にその欺瞞性や虚偽性や邪心に対しては敏感で、一度たりとも判断を誤ったことはない。

とにかくその感覚に導かれて行動する。その言動の正当性と理由は必ず後から付いてくる。

つまり見る前に飛べば、必ず正解に辿り着くであろう。

逡巡していては機を逃してしまう。機に臨み変に応ず。臨機応変は最適解への近道である。

普段は慎重で石橋を叩く派なのに、ここぞと思う時は兵は拙速を尊ぶ孫子の兵法の如し。

欺瞞、虚偽、怨恨、理不尽、不正、不穏、不条理、悪意、そういうものには特に敏感だ。

逆に無垢なるもの、あるいは真に善なるものに対しても、霊的精神が殊更に感応するが、

僕は過去にその様な『純粋な存在』に一度しか出逢ったことはない。

だがその話は悲しい結末が待っているのであまり言したくはない。

しかし、考えが今後の情況によって変わるようなことがあれば、

確約は到底出来ないが、改めて別のシリーズとして、お話する事もあり得るであろう。

僕が思うに霊魂はね、霊能力者の資質のある者に呼応するんだよ。

魂の共鳴と言ってもいい。

でもそんなに凄いことじゃないのは僕も知っている。

予知なんて出来っこないし、ただ呼応して感応して、霊がこの世に残した想いを感じ取るだけ。

でもこれって結構つらいんだよ。好奇心が幾ら強くてもね。

実際に霊魂の前に立てば手も足も出ない。

ただされるがまま。

でもね、僕は取り殺されたりはしないんだ。

霊は僕にいつも何かを伝えに来ているのだから。

 
 
 
・・・・・・・・!
 
 
 
知ってました?
 
 
 
あなたの周りにも霊魂がいることを。
 
 
 
〜TODAY'S SERVICE SHOT.〜

日没.jpg

 2023/02/08 14:25追記。

今日は笑えることがあったので、久々に非日常ではなく「日常の出来事」を書くことにした。

いつもの通りスーパーに行った。

この店は安いと評判の店だが、ご多分に漏れず毎回の支出は30%増しである。

故にいつしかレジのおねえさん(と言っても僕と同年代か少し上かな)の、バーコードリーダー読み取りとか、金額に間違いがないかざっと眺めるクセがついていた。

そうしたら、ポンカン一袋(4個入り)498円(税抜き)の、バーコードがどうも読み取れないらしく、おねえさんは仕方なく数字打ちをして金額を読み取った。

それまでの金額は6,667円(税抜き)だったが、打ち込まれた瞬間、そのポンカン一袋の単体のお値段が、何と税抜きで89,689円。

税込では合計金額が軽く10万円を超えていた。

そのままおねえさん気づかずレジ打ちを始めた。ヤバイ!!!

「あの今のポンカン89,000円以上もするの?」

思わずそう口を出した僕。

「あ、すみません。打ち間違えました」

どうも目が悪くて(たぶんローガン)数字がよく見えなかったらしい。

急いで他の係員に助けを求めてその係員が代わって入力。

それで事なきを得ました。

あのまま進んだら、スーパーの買い出しで初めて税抜き10万円超えの「快挙」だった!

おかしくておかしくて、思わず妻にメッセージを送った。


過請求.jpg


私は独り身ではなく妻帯者ですが、リタイヤ後は自分の事は自分ですると決心した。

一応<家事のさしすせそ>は何でもそつなく熟(こな)せます。

ところで<家事のさしすせそ>の「し」は「躾」だが、子どもがいないのでは躾はしようもないし、かと言って妻の躾は出来なかった。と言うより出来ようもない。恐妻家だから!

しかしその他の家事なら、裁縫、炊事、洗濯、掃除まで自分ひとりで熟してしまう。

だから妻は僕さえいれば左うちわ。一家に一台「静謐な一日」ってな具合である。

元々自分で出来ることを他人任せにするのは性に合わない。

だがしかし、恐らく僕の本性は怠惰で、どうしようもないくらい駄目男。

でも、、、だからこそ人に頼ってはいけないという気持ちが殊の外強いのだった。それも子どもの頃からそうだった。独立独歩、自立心が高く依頼心が極端に少なかったという。

だから何か大きな障害や障壁にぶつかると、フツーの人ならめげてしまう情況でも、自分ひとりで何とかしてしまうだけでなく、他人が困っているのを見て見ぬ振りが出来なかった。

「弱きを扶け強きを挫く」そんなことは僕の日常茶飯事だ。

そして曲がったことも大嫌い。

 

 

人は清く正しく美しく生きねばならぬ。

それゆえに、たとえ自分を捨てでも、人を扶けねばばならぬ時がある。

 

・・・と思っている。

 

2023/02/09 7:50追記

2月6日に起きたトルコ南部の地震は内陸型としては世界最大級だとのこと。

更なる被害の拡大が懸念されます。

 

 

 

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『屍者の傍らで眠る』〜其の肆 [それから]

紺碧に変わる.jpg〜TWILIGHT.〜

 

 

 これから書くことは僕にとってはすべて事実です。

 しかし、それを信じる信じないはここを訪れてくれた方々、めいめいの判断にお任せしたい。

 すなわち、これを実話と捉えノンフィクション・メッセージと受け取るか、

 それともまた物語やら小説と同様にフィクションに基づいたストーリー、

 つまり架空の出来事と捉えるかは皆さんの自由。

 

 

 例えばこのブログのサブタイトル。

 これは僕の実体験に基づいてタイトリングしたものだ。

 実際のところ、僕には亡骸のすぐ傍らで一晩、或いは幾夜かを過ごした実体験があるのだ。

 それも一度ならず三度も!

 しかもそれぞれに、その時の自分の置かれた立場と情況は異なるものの、

 常にない特異な体験をしたという一点に措いては、

 糅てて加えて、その時湧き上がった戦慄的体験と深い感慨を受けたという意味では、

 実際のところ全く同一といって良いほど酷似していたのであった。

 

 つまりそれは、一つとして例外なく、紛うことなく『心霊的かつ神秘的体験』であった。

 

 以来僕は『霊魂』の存在を信じている。

 

 霊的存在である(実際には『霊媒』としての)僕自身の資質についてもそれは同様である。

 

 

 

 ・・・・・・・・!

 
 
 
 知ってました?
 
 
 
 あなたの周りにも霊魂がいることを。
 
 

 

〜TODAY'S SERVICE SHOT.〜

波打ち際.jpg

 

 この先は次回。

 

 <通知>

 ヘッダー画像は一週間後にモノクロームに変更予定です。

 今のうちにカラー写真をお楽しみ下さい。

 

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