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『屍者の傍らで眠る』〜其の㭭 [それから]

パートナー.jpg『PAIR』

 

  

 心霊現象とか神秘体験といった超常現象を見たという話を聞くと、大概の人が眉に唾して話を聞くものらしい。まあ現実的にそうした体験は再現性はゼロだし、霊魂は殆どの人は不可視だから検証出来ないし、再現性もなく検証不可能となったらもうこれは『科学ではない』と断じる人が殆どではなかろうか。

 でも有史以来霊魂の存在は、洋の東西を問わずずっと絶えることなくその存在については語られて来たのでそれを一概に否定も出来ないのが現実だ。それに死後の世界を誰一人見た者は誰一人いない。存在が否定できないが、存在を証明するものもないとなれば、それは研究の対象である。故に古来から心霊現象に関わる研究は数限りなく為されて、それこそ天文学的な学術的レポートが発表されている。

 故に科学万能社会の現在でも、今以て誰一人その存在を否定も肯定もできないは事実だろう。

 尚、それが証明できなからといって、

『それが科学的でないと断じるのは科学的ではない』

 という真実を皆さんは肝に銘じるべきだろう。

 コペルニクスが『地動説』を唱えてからも、長い間人々や宗教界も天動説を信じて疑わなかった事実が何よりもそれを物語っている。その事実は科学万能の現在に措いても然り。人々は科学的に立証されるされない以前に、感情で物事や事象を判断し、理解できないものは拒絶するか無視するのが常だ。

 それが証拠に、科学者や著名な知識人ですら何ら科学的根拠もない『陰謀論』を唱えて逮捕されたり、世界中で物議を醸し出している。この『陰謀論』の科学的根拠を示せと言ったらそれこそ誰一人それを証明できないであろう。それでも世界中で、そして欧米かぶれの日本人の過半もそれに靡いて、『陰謀説』を信じて話題に載せたりするのだ。

 何一つ科学的ではない、情動そのものである『陰謀説』をね(o゚▽゚)o

 でも僕は前述の通り好奇心旺盛で、知らないものを知らないままにして置けない困った性格の持ち主だ。良くいえば探究心旺盛、悪く言ったら真理を見極めるまでは諦めない「しつこさ」が僕の特性であり個性なのだ。

 という訳で、『常ではないもの』に対しての好奇心が旺盛で、人並み外れた興味を示すのが僕に取っての常であった。そして『常ではないもの』の筆頭は、誰しもが人や身近な生き物の『死』であろうと考えている。たぶんこれに異論のある方は殆どいないであろう。

 更に言うならば、『死』と『霊魂』の存在とその関係は、不可避・不可分であろうと考えているのが僕である。何故ならそう考える根拠というか「よすが」になる経験を、僕は実際に経験してるからだ。

 

 幼い頃より青年期に入るまで死は身近にあった。それも自然死よりも事故死や病死や異常死というものの方が圧倒的過半を占めていた。そして自然死以外の死は僕の恐らくは霊性を呼び覚まし、目の前で起こった出来事を何か特別なものあるいは怪異な出来事としてではなくて、当たり前のこと、つまりごく自然な事としてそれを受けいれた。

 当然ながらそれらが僕に与えた影響は大きい。生死感は元より人生観や生き方にもそれは多大な影響をもたらしたのだから。

 これは余談だが、恐らくは認知症にでもならない限り、僕は自分の死期を悟ったら従容としてそれを受け入れるだろう。裏を返せば、もし認知症の兆候が見られたら、僕はその時ある決断をしなければならないと思っているが、それはごく私的な事だから皆さまにそれを話すつもりはない。

<閑話休題>話を元に戻そう。

 霊魂の存在を目の当たりにし、それを当然の事として受け入れて以来、他人と自分の違いの大きさが僕を大いに苦しめることになる。

 青年になって以降、普段の僕がそれを意識することはないが、無意識下だからこそ僕のこれまでの来し方にも、それは当然色濃く影響を与えていたと思われる。

 幼年から多感な青年期までの四半世紀の間に、強烈に記憶に刻み込まれる死と遭遇していた。事故死、病死、自然死。死の様態は様々であった。だが共通していることがふたつだけあった。

 一つ目は僕は亡くなった対象(人とは限らない)から殊の外愛されていたことだ。ただ僕がそのことを、当初から明確に認識していたかというと、必ずしもそうではない。現に、はじめて『その死』を認識した祖父の場合は、数年間離れて暮らしていたがためとあまりにも僕が幼かったが故に、生前祖父が僕を殊の外かわいがっていたことすら覚えてはいなかった。

 二つ目の共通点は、僕に強烈な印象を与えた。なぜなら、それがこの世に有り得べからざる現象だったからだ。もし僕以外の誰かがそれを見たとしても、それは間違いな超常現象だと認識したであったろうし、神秘体験だと思っただろうし、明らかに心霊現象そのものであった。

 だが如何せん、それは僕以外の誰一人、見ることは能わない。

 はじめてそれを見た時、僕がどう思ったのかをまずは話しておこう。僕はその時、確か小学校入学前だったと記憶している。だからそれが何か尋常でないもの、この世に有り得べからざる物であることはだけは分かったが、その物体が僕以外の誰にも見えないことを不思議に思った。

 不思議と言ったが、当然そのような言葉だけで終わる話ではない。

 以来僕はちょっと変わった子、狐憑き紛いの神経質な子という風評が立った。普段の僕がおとなしくはあったが笑みの絶えない明るい感じの子どもであったからこそ、それは逆に余計に悪目立ちしたのかも知れない。

 では僕がそこでいったい何を見たのかをお話しよう。

 通夜の夜中に尿意を催して一人御不浄(トイレのこと)に向かった。それは用事を足して父母と姉の寝る部屋に戻ろうとした時の話だ。その当時の郷里の父方の実家は、御多分に漏れずに部屋の構成は田の型配置で、外側はガラス障子の建具で構成された板敷きの縁側廊下となっていた。

 僕がそこで目にしたのは、板敷きの縁側廊下から開け放たれた障子越しに見た、祖父の遺骸の横たわる広間に浮かんでいた何とも形容しがたい物体だった。

 それはゆっくりと回転しながら空中を浮遊していた。半透明で翡翠色をした燐光を放つ物体で二つの四角錐の底面同士を貼り付けて八面体にした感じ。それが田舎家の18畳の広い和室の中でゆっくりと回転する様を想像できるだろうか? 僕はそれを実際に見たのだ。

 後年になって分かったのだが、僕にとってそれは尋常ではない死を意味していた。しかもそれら死の数々は、後年更に多く接した死の様態とは明らかに異なっていた。というよりも青年期以降、僕はそうした様態の死に一度しか接していないし、感応もしていない。

 それからすれば、恐らくはその能力は普段は影を潜めているだけなのだろう。しかしいざ『その時』が来れば、恐らくは、否必ずまた発動する。

 最後にその様態の死に接したのはわずか七年前だ。初めは恐れを以てそれらの死を受け入れた。だが、それが度重なれば死というものに対する認識は変えざるを得ない。

 幼い頃から人の感情を敏感に感じ取ることが出来た。

 言葉というか音声で感じ取ることができたのだ。言うまでもなく実際に誰かが声を出して語っている訳ではない。誰かの心の内の声、つまり本音・本心が僕の耳には聞こえていたのだ。

 ただ大勢の中だと、それが誰の感情であるかを見極めることはできなかった。だがこの事象は超能力というのとは違うものだと認識している。なぜなら、今に至るも常時それを感じることは終ぞなかったし、それを明確に語ることは困難だ。

 これは誰でも本来は持っている根源的感覚であり潜在能力なのだと僕は思っている。しかし多くの人はそのことに気づくことなく一生を終えてしまうのではないか。

 それが情況によって現れたり消えたりする。だから捉えどころがないし

死は忌避したり忌みするものという認識はなく、ごく自然なこと、日常だという認識があった。だから親しい者(人間とは限らない)が亡くなれば、最後の時を一緒に過ごしてあげたいと思う。

 具体的に言えば、僕は過去において、死んだ者のすぐ傍らで三度眠ったことがある。もちろん亡骸は一つではなく三つであり、時期も十三歳、二十六歳、三十六歳と異なっている。

しかし、年月こそ違っているがそれらはいずれ劣らず、スピリチュアルな体験だったと言えよう。

知っているかい?

 人が死んで暫くの間は、傍にいる生きている者を、死の世界へと引き摺り込もうとするのだよ。人が死んでとは言ったが、これは何も人間に限った話ではない。例えばペットなどでもあり得る。つまり生きとし生けるものと関わりがあるならば、誰でも経験する可能性はあるということだ。

 こうしたスピリチュアルな実体験に基づいて、僕ならば確信的にそう言える。ただそれを体験というか体感というか、認識できる人と出来ない人がいるようだ。要は生前どれだけ亡くなった者と拘わっていたかがその鍵になる。故に、死んだ者と係わりが深ければ深いほど、引き摺り込まれる恐れは大だ。まあ屍者との生前の関係が良ければ良いほどそれを回避できる確率は高いし、そうであれば引き摺り込まれるどころか却って『守護霊』となってくれることだってある。

 ところでどうしてそんな体験をわざわざする必要があったの?・・・という質問が来そうだが、僕は敢えて傍らで眠ることを選んだんだ。だって、亡くなってしまった者ともう一度話してみたかったから。つまり僕は関わりが深かったからこそ、傍で一晩一緒に過ごすことを敢えて選んだのだ。

 初めてのスピリチュアルな体験は五歳の時だが、僕は以来霊魂の存在を信じるようになった。

 僕の前に現れた霊魂に問い掛けたところ、どうも霊魂には大きく分けて二つに分かれるらしい。すなわち、悪しき想いを懐き人々に災いをもたらす『悪霊』と、その真逆の『善霊』だ。その違いが明確には分からないが、それぞれ『怨霊』と『精霊』とに置き換えてもいいらしい。

 幸いなことに、僕の前に現れたのはすべて『善霊』だった。生前のその者との接し方で、『悪霊』になるか『善霊』になるかが決定づけられるとの事。ちなみに『悪霊』は<あくりょう>、『善霊』は<ぜんれい>と呼ぶらしい。

 

 信じる信じないはあなたの自由です。何しろ見える人には見えるけど、見えない人には一切見えないから。でも見えない人は突然死するんだろうなと思う訳。なにしろ原因不明の死だからね。

 でも見える人には見えるんです。見えない人の肩に、霊魂の意思が形になって、手を掛けて抱き込もうとしている姿が。僕が見たその人は一週間後に眠るように亡くなったそうです。

 ところで霊魂は、緑の燐光を放ってゆっくりと回転しながら、空中を浮遊しているんですよ。観察者(僕のこと)が感応すると、霊魂もそれに応えて必ず感応します。観察者=霊媒が精神的に強く感応すると、浮遊する霊魂の回転も輝きも増し辺りを照らします。聞けばまるでミラーボールのようですが、実際にはミラーボールのような疑似球体ではなくて、

四角錐を二つ合わせた八面体で、緑の燐光色を放つ半透明な霊体をしているのですけれどね。

 

知ってました?

 

あなたの周りにも霊魂がいることを。

 

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