SSブログ

『屍者の傍らで眠る』〜其の什 [おしまい]

対岸の灯.jpg

〜CITY LIGHT ON THE OTHER SIDE OF THE SEA.〜

 

これはノンフィクション小説である。つまり書かれている内容は架空ではないということだ 。しかし小説という読み物であるだけに、記載内容の全てをつまびらかに取り上げて、それら一つ一つに関して、実際にあった出来事と一字一句相違しないとは言い難い。また直近の出来事があってから七年余りが経過した今となっては、事実と記述内容とを完全に合致させる事は不可能に近い。否、出来ないと断言しよう。つまり書かれた文章に、小説の体裁を整えるためや、記憶の欠落を補うための多少の脚色があることは了解願いたい。だがたとえそうだとしても、書かれている内容は事実から<1ミリも>逸脱することはないし、たとえ文章の一つ一つを取り上げたとしても、この小説を通して全体を見渡したとしても、その文意も言わんとするところも一切脚色はないと断言しよう。だから著者はこれをノンフィクション小説として自信を持って公開することにした。

ただし掌編小説(所謂『ショートショート』)くらいの長さはある。ゆえに心して読まれよ!

 

 

 

"Fact is stranger than fiction." ~ Written by George Gordon Byron

 

 

 

それはまだ外は凍てつく二月のことだった。

 

前年までの二年近く、僕は遠く離れた地で単身赴任をしていた。

その間は妻が”我が息子”♂(イニシャルは『U・B』、略して『B』または『Bちゃん』)の面倒を見てくれていた。妻は実は動物が苦手であった。

しかし幾ら拠ん所ない事情があってそうしていたとしても、日々その面倒をみていれば愛情も愛着も湧く。だが妻は(元々動物が苦手であるだけに)それでも身体を撫でてやることは出来ても、抱っこをしたり一緒に遊んであげることは出来なかった。

僕が家を留守にしている間、妻は一日二回我が子『B』を外に連れ出したそうだ。しかし、嬉しさの余り落ち着きなく動き回る『B』にハーネスもリードも取り付けることが出来ず、いつも小さなクレートに入れて自転車の前カゴに乗せ『お散歩』なるものをしていたそうだ。だがそれでも我が子は、妻がお散歩の支度をし出すとソワソワしだし、ケージの中を行ったり来たり飛び跳ねたりと、その小さな体全体で歓びを目一杯表現していたという。

今では妻が声掛けする度に、お腹を見せてナデナデをねだるまでになっていた。それからすれば、我が子は妻も第二の飼い主としてようやく認めたようだ。そうして動物嫌いの妻も、我が子『Bちゃん』だけは特別・・・と思うようになっていた。

 

その妻と我が子の間柄が親密になった頃、僕はようやく任期を終えて我が家に帰って来た。

僕が玄関の扉を開けて帰って来た時の、我が子のあの喜びようは、まさに狂喜乱舞という有り様だった。小型犬なのに90cmはあるケージの木枠から身体が飛び出てしまうほどビョンビョンと飛び跳ねて、ワンワンと騒々しくも派手に歓迎してくれたのは、今想い出しても微笑ましく、尚かつとても嬉しい光景だった。

 

それからの一年はあっという間に過ぎ、次の年を向かえた。

単身赴任を終えてからは仕事で多忙ではあったがそれは言い訳にはならない。ある日僕は今ではすっかり我が子『B』の面倒を放棄して妻任せにしている自分に気づいた。人間の年齢に換算すれば、もう老齢といってもよい我が子の毛並みにはいつの間にか艶がなくなり、白い毛も目立つようになっていた。それが気にはなっていたが、他のことにかまけて今日の今日まで知らぬ振りをしていたのだった。

しかし幾ら僕が”育児放棄”しても、僕を慕う我が子は健気であった。僕の姿を見掛けたら一時も目を離さず、その姿を追い続けるのだ。

その日は非番で少し心にも余裕があった。久々に体を撫でてあげることにした。

ケージから掬い上げ、そうしてあぐらを掻いた脚の間に寝かせてお腹や背中を撫でてあげると、我が子はとても気持ちよさそうに目を閉じるのだった。だがそんな幸せな一時も、僕の手に触れたあるものが原因となって、途端に不安に取って代わってしまった。我が息子の背中を撫でた指先が、首根っこのところに、『ある違和感』を捉えたのだ。とても小さな痼(しこ)りだったが、どうも健康な皮下の組織とは明らかに違うように思えた。それは寒い二月の朝のことだった。

その痼りは小豆大の大きさであった。色々触って確かめた結果、腫瘍だろうと推測した。

過去にも腫瘍が出来たことはある。だがその時は二ヶ月で腫瘍は消えていた。それがあったのでしばらく様子を見ることにしたのだが、三ヶ月もしないうちに痼りは更に大きくなって、今では一晩水に浸けた大豆大の大きさにまで成長していた。しかも今度は背中の下肢の付け根辺りにも小さな痼りが出来ていた。恥ずかしながら、発見したのは五月初旬の旅行先で『B』を預けた、ペットサロンのトリマーさんだった。

もしかして転移? すぐに悪性腫瘍(皮膚ガン)を疑った。

それで旅行から帰ってすぐ、行きつけの動物病院に連れて行った。診断で言われた病名はリンパ腫だった。だが良性だろうということであった。

『えっ、良性のリンパ腫なんてあるの?』

リンパ節は全身に存在しそれらがリンパ管で繋がっている。隣接する血管ともツーカーの仲だ。そこにリンパ腫が増殖すれば容易に全身に転移してしまうのではないか。そんな素朴な疑問が脳裏を過った。だが、獣医師の言うことなので信用するしかなかった。

<しかしその診断は結局は誤りであり、その後も医師の見立てはことごとく外れた>

その際、医師から「大きく成長しているように見えるのは、リンパ腫が血液を養分として掻き集めているからだ」と、説明があった。「気になるなら血抜きをしましょうか?」、軽い調子で提案された。それで一番大きな腫瘍の一部をカットして血抜きをして貰うことにした。

・・・確かに血抜きで腫瘍そのものは小さくなった。だがカットした患部からの出血が止まらない。それは獣医師が少し慌てるほどの大量の出血だった。それほどリンパ腫という癌細胞は、我が子の血液を自分の細胞の周りに集めて、それを養分として急成長していたようだ。

医師が急いで患部を数針縫ってようやく出血は止まったかにみえた。

医者は僕を見てニコリと笑い、「リンパ節の周りは太い動脈が沢山通っているのでカットには危険が伴うんですよね」と補足的に説明した。はじめにその説明がなかったので、僕にはそれが言い訳に聞こえた。出血箇所の太い血管やリンパ管はちゃんと塞いだのだろうか? 医療についてまったくの門外漢の僕にはそれが確認できなかった。

我が子の首の周りは、看護師数人掛かりでガーゼやタオル等で一応は血が拭い取られていた。だがそれでも完全には拭い切れてはおらず、患部周辺のみならず、片側の前脚まで血の色で朱く染まっていた。さらに医師の白衣や看護師のエプロンにまで血は飛び散っていた。

我が子の毛色は茶と白の斑だが、白の部分が体毛の殆どを占めており、そうした白毛部分に付着した血の汚れは殊更に目立った。そういえばステンレス製の体重計を兼ねた診察台まで血だらけだった。拭ったガーゼやタオルも血でぐしょぐしょだ。

よくもまあこれだけの血が流れたものだと思いながら、人間の血液に換算したら1リットルを越える血液が失われたのではないかと思った途端、ふと恐くなってしまった。人間の場合全身を巡る血液の量は約3リットル。その1/3の1リットル以上失血すれば、緊急に輸血をしないと失血死しかねない。僕には五時間にも及ぶ切開手術の経験があるから当然それを知っていた。しかし献血制度もない犬の輸血は事実上不可能だ。その事実を知っていたからこそ恐くなったのだ。

止血後に医師からは今後の治療方針についていろいろな説明があった。患部に外部から病原菌が入って二次感染になる恐れもあるので、三日間は患部を洗わないようにと医師から伝えられた。散歩も出来ればしないで欲しいとも要望された。当然その指示に従った。

それと同時に念のためという名目で医師はリンパ腫の一部(検体)を検査に出すと言った。<良性>と診断したのにである。

そうして医師の診断と要望に従い暫く様子を見ることにした。だが一ヶ月もしないうちに腫瘍は新たに転移して、今や背中に四ヶ所も病巣を増やしていた。そうした顕著なリンパ腫の塊だけでなく、背中を中心に粟粒様の小さな塊が夥しく出来ているのを僕の指先は捉えていた。人間の指先は殊の外敏感だ。その指先が我が子の異変を察知し、その危険性をいち早く僕に知らせていた。

・・・『これは只事ではないぞ!』と。

更に一ヶ月後、嫌な予感は的中した。『疑念は必ず悪い形で実現する』という予感だ。

アメリカの研究所と提携しているというラボに出した検体の検査結果が届いたとの連絡が動物病院からあった。医師はそれで相談したいことがあるので我が子『Bちゃん』を連れて病院に来て欲しいという。そう言われれば行かざるを得ない。

結論を先に言おう。・・・結果は『悪性リンパ腫』だった。しかも急性だ。

このところ行く度に注射針を前脚に刺されたり背中を切除されたりそれで大量出血したりと、随分と痛い検査や治療をされてばかりだった我が子は、診察室に入るなり僕の腕の中で珍しくブルブルと震えていた。こんなに怯える我が子『B』を見たのは初めてだ。だが絶え間なく声掛けをしてあやし気を鎮めさせたせいか、それとも今日は何もされないと分かったからか、連れてきた当初は怯えかつ落ち着きがなかった我が子は、今では僕の腕の中に頭を突っ込み、すっかり安心したかのように目を瞑りジッとしていた。


だがその腕に抱かれた我が子の身体を触ると、気のせいだとは思うが数日前よりリンパ腫は背中に無数に転移し存在しているように思えた。毛足が長いからパッと見た目は分からないが、首根っこのリンパ腫は今や空豆大となり、それは僕の眼と触った感覚からすれば到底容認できるものではなかった。

そうした検査結果の説明の後、医師に今後の方針について実に軽い調子で二者択一を迫られた。

悪性リンパ腫だと宣告されただけで少しばかり動揺しているのに、飼い主としての今後の対応をいきなり問われたのだ。それに因れば、温存療法という形でこのまま対処療法としての延命治療以外は何もしないか、積極的に外科治療と抗がん剤治療を施術するかという二者択一を『飼い主としてせよ』、という話のようだ。

気休めにしか聞こえなかったが、治療をしなくてもすぐに死ぬ事はなく発症から二年以上生きた例も結構あるという。だがその場合、多くは身体は腫瘍だらけになり、見た目にもそれはハッキリと分かるほどだという。またその末期は、痛みで『B』自身相当苦しむことになるだろうという説明であった。

誤診とまでは言えないだろうが、当初から診断が悉く外れてばかりのこの医師の説明だったので、僕はその説明を素直に受け取れなかった。だから今の説明が、まるで『我が子の醜い姿を見たくなかったら積極的な外科手術や抗がん剤治療をせよ!』と言わんばかりに、僕には聞こえてしまったのだった。

正直に言えばその時点で『B』の今後のことを深く考えていた訳ではない。だが僕には懸念があった。

「今すぐここで返事をしなければなりませんか?」

「このまま放置していても良いことは何一つありません。手術するしないという結論なら一ヶ月後までならお待ちします」

僕は、ならば一ヶ月待ってくれと、医師に伝えた。次回の診察日が決まった。

そう言ったのは様々な理由があったからだが、一番の理由としては経済的な事情である。一旦手術となれば、それこそとんでもない費用が掛かることが分かっていた。実際、我が子『B』の医療費は、過去に骨折や尿道結石等の計三回の手術で一回につきウン十万円、総計で百万円以上の支出があった。例えば今回の検体病理検査票の発行だけで5万円の請求があり、その他診察代や諸々の料金がそれに加算される。しかもこの病院の場合、クレジットカードでの支払いは一切利かない。だからこの病院に行く時には、いつも十万円くらいは現金で持ち合わせていなければならない。仕事場での昼飯は、四百円もしない仕出し弁当を食べて節約している僕がだ。

十年前からフリーランスになり収入は不安定だった。今や蓄えも潤沢とは言い難い。動物医療保険にも入ってはいなかったから、結局は相当な支出を余儀なくされるのが目に見えていた。

だが結局僕は、積極的に癌治療する道を選んだ。

まずは外科治療を七月初旬に実施した。その時点で一番大きな腫瘍は、あのカットして大量に出血した箇所だった。首の付け根のその病巣は、直径がゴルフボールには少し足りない程度の大きさにまで増殖していた。今では僕だけでなく誰が見てもその異変は明らかだった。何だかノートルダムのせむし男かバッファロー(アメリカバイソンの異称)のように、背中が瘤状に盛り上がっていた。

その一番大きく目立つリンパ腫の摘出手術をした。切開長は7cm、縫合には10数針縫ったと記憶している。これは小型犬にとっては大手術である。術後はエリザベスカラーを取り付けられた。その後一週間は、立てばヨロヨロと歩き、歩を進める度に痛いのか「キャン!」と短い叫び声を上げていた。その姿は見ていてとても痛々しかった。

その後も術後の転移を防ぐため、一ヶ月集中的に積極的な抗がん剤治療をした。

積極的な治療をすると決断して以降、僕には一切迷いはなかった。

そうして施術と、その後一ヶ月間の治療を終え、他の患部の病変も一旦は縮小した。病状は一見して快方に向かったかに思えた。だが安心したのもつかの間、術後二ヶ月経った九月には更にリンパ腫が転移していた。僕はある日、背中だけでなく鼠径部にまで癌が転移しているのを発見した。

不安は再び顕在化した。切開手術の際は、これ以上できないというほど広範囲に癌細胞とその周りの病変していない細胞まで切除していた筈だ。念には念を入れて、健康な組織も含めて患部の周囲まで多めに切除したとの説明を受けていた。そこまでして慎重に進めた手術だった筈だが、結局のところの悪性リンパ腫という癌細胞を、完全に身体から取り除くことは出来なかったのだ。

リンパ節は身体の至る所にありリンパ管で繋がっている。そのリンパ管を通ってリンパ球は全身を循環している。同じようにリンパ節に発生したリンパ腫という癌細胞も、このリンパ球と同じく全身を駆け巡るだろう。更に言うならば、リンパ種という癌細胞はリンパ球同様容易に血管内に侵入できると思われる。殊にその病巣の膜を切除などによって破られれば尚更であろう。素人でも考える頭があれば容易に想像できることだ。

それからすると切除手術時には既に他の部位にまでリンパ腫は転移していたと考えられる。それだけでなく、手術時に切除されたリンパ腫から零れ落ちた微細な癌細胞が、リンパ管や血管を介して全身を駆け巡り更に広範囲にリンパ腫をばら撒いた可能性は否定できない。

そうした転移の危険性があったからこそ、術後に抗がん剤治療をしてそれを防ごうと試みたのではないか。だが結局はそれは徒労に終わった。この種の抗がん剤は、この悪性リンパ腫にはあまり効果がなかったのだ。

しかし僕の苦悩と我が子の苦難と苦痛はそれだけでは終わらなかった。

弱り目に祟り目、その日診察を受けた我が子と僕の前に、今後待ち受けているであろう残酷な現実が突きつけられた。更に言えば、その掛かり付けの医師から告げられたもう一つの現実で、僕の頭は一瞬真っ白になった。

またもや二者択一を迫られたのだ。

しかも今回ばかりは、前回同様に医師から軽い調子で言われた訳ではない。

迫られた内容は『B』の命と運命に直結する切実な話だったのだ。

それはこのまま延命治療を続けるか、それとも敢えて治療はせず死を待つかの究極の選択だ。それは、もはや病気は治癒しないし、死ぬ事を前提としていた。その意味するところを知った僕は、この現実を俄には受け入れられなかった。

ボウッとする僕の耳に医師の言葉が空しく響く。「積極的な抗がん治療はしなくても、延命治療をすれば一年程度は生き延びる可能性がありますよ」・・・僕はその意味すら理解できず、すぐには返事ができない。何もかも気休めにしか聞こえなかった。

その様子を見た医師はさらに説明を加えた。今度は前回とは真逆の説明だった。

それに因れば、抗がん剤治療をするにしても今まであまり効果を発揮していない抗がん剤をこれからも投与し続けるしかないという。しかもその効果はあまり期待できないことに加え、なおかつ治療による副作用まで考慮に入れると、『Bちゃん』の苦痛を長引かせるだけか、却って余命を縮めかねない・・・と言われた。

それは『もう打つ手がない』と宣言したも同然だ。僕はその現実を受け止められない。

その話の最後に、副作用の中で最も危惧されるのは『誤嚥性肺炎』だと初めて聞かされた。過去一ヶ月の抗がん剤治療で使った注射や飲み薬で、嘔吐(えず)いたことは一度もなかったのでサラッと聞き流した。それよりも余命宣告された事で頭が一杯だったのだ。

 

だが僕はそれでも前者を選ばざるを得なかった。

 

我が子は人間の年齢に換算すればもう老境にとうに入っている。抗がん剤治療をしてもしなくても、余命は一年と違いはないだろうと宣告されたにも拘わらず、そう決断したのだ。

それは僕の我が子に対する罪の意識に基づいたものだ。もう遅いかも知れないが少しでも我が子と一緒にいる時間を取りたい、我が子の幼い頃のあの幸せだった時間を共に取り戻したいという、甚だ自分勝手な理由によるものだった。

そんな愚かな想いに取り憑かれていた僕だが、我が子の方は自分の死期を悟っていたに違いない。

だがそうして選択した抗癌剤治療の継続が、却って我が子の死期を早めてしまった。

抗がん剤の副作用の一つである強い嘔吐が原因で、医師が指摘し危惧していた誤嚥性肺炎に罹り、しかもその時点ではレントゲン検査でも症状を確認することが出来ず、一週間後の再検査で結局のところ片肺が壊死していた事が確認されたのだった。

体力を激しく消耗するほど、長時間に及んで咳き込んだその日以来、彼はご飯を殆ど口にしなくなった。水もあまり飲まない。あんなに活動的だった我が子だが、今では日がな一日体を横たえて浅い息をしている。しかも時折老人のような苦しげで弱々しい咳をする。

体は見る見るうちに痩せ細っていった。

そらから十日ほど経った三日前に、我が子は呼吸困難に陥った。

妻から連絡を受け、仕事場から急遽帰宅した僕は、そこに息絶え絶えの我が子の姿を見た。

僕は身近な人が同じ症状になった時にその一部始終を見ていた。その時の経験からすれば、死滅した片肺から病原菌が血液とリンパ液を通して全身に回り、敗血症を発症し循環器障害と敗血症性ショックを引き起こしている恐れは大だと、素人目にも判断せざるを得なかった。

僕は寝ずの看病をした。(とは言っても声掛けをし続けて、ただ見守るしか出来はしなかった)

その夜の我が息子の呼吸はその小さな体からは想像すらできないまるで鞴のような荒々しさだった。

 

 

 

その日から三日後、覚悟のその時が遣って来た。

 

04ウサギ.jpg

 

 

 

続きを読む


コメント(55) 
共通テーマ:日記・雑感

『屍者の傍らで眠る』〜其の玖 [人ならざるもの]

001.jpg

〜TWILIGHT ZONE.〜富士の頂上が低く棚引く雲上にチョコッと見えているのが分かるかな!

 

 

 

幼い頃より青年期に入るまで死は身近にあった。

これはあくまでも僕の感覚だが、恐らくは幼少期に人の死に接した機会は、他人よりも特段多かったように思う。それも事故死や病死といった、自然死とは明らかに異なる死の様態に接する機会が殊の外多かった。(『天災』といった大規模自然災害を除きます)

無論正確に他の人達と比較した訳ではないし、又しようとも思わないが、小学校卒業までに接した身近な人の死は、両手の数には少し届かなかったといえば、その尋常ではない有りようが分かろうというものだ。糅てて加えて、三回も死の間際、瞬間、あるいはその直後に臨場したことさえあったのだ。そうした死に纏わる出来事の数々が、幼い心に強烈に刻み込まれない筈はなかった。

それはそうだろう。知っている人の自然死以外の死を、幾度もその瞬間あるいは直後にその場に居合わせたとしたら、自分は死と密接に結びついているのではないかと恐れ戦いても、ちっともおかしくはないだろう。だがそれでも尚、僕は死を恐れたりはしなかった。

朝起きて、食事をして、学んだり働いたりして、そして夜になったら寝る。そういった日々の積み重ねの延長線上に、ごく当たり前のこととして死はあると捉えたのだ。

それは達観とか諦観とかいうものではなくて、この心境をどう呼べば良いのかも分からないのだが、何の抵抗もなく素直に目の前の事象を捉えられる持ち前の気性ゆえか、雑念や思惑など一切入る余地もなく実にすんなりと死というものを受け入れられたのだった。だからこれまで一度も自分が死ぬ事を恐れたことはない。夢見にさえそう思ったことはないのだ。

だから死というものを、何か特別なものだとは思わなかったのだった。

自分が死ぬことの意味すらそうなのだ。況してや他人の死を特別視することなどあり得ない。例えばの話だが、それが事故死でそれこそ血まみれの他人の屍を直接見たとしても、さらに言うならば如何にそれが衝撃的事実であったとしても、殊更に死を恐れ、死に戦くことはない。

こころで僕は今、譬え話として血にまみれた屍の話をしたが、実際にはこれは譬えではなく実話だ。つまりそれを経験した上での話なので、現実にはフィクションではなくノンフィクションなお話だ。そんなショッキングな経験を幼い時にしているにも関わらず、僕がそれで死というものを殊更に恐れたり、拒絶反応を示したことは一度とてなかった。ああこんなにあっけなく人は死ぬんだな、人体とはこうも脆いものなのかと思っただけであった。

それはそうだろう、僕にとって『死に方(死の様態)』よりも『死んだ後、人はどうなるのか』の方が遙かに高い関心事であったのだから。

そうして、『人は遅かれ早かれ何れ死ぬ』という事実を、僕は七歳のあの時点で知ったのだ。

だが、そのこと自体は僕に言わせれば大したことではない。ただ『それ』を実際に目で見て、死のもたらす意味を正確に理解しただけである。これは自明の理であり自然の摂理である。むしろそうした不可避のものを恐れることの方が、僕にとっては不合理であり理解しがたい事であった。

しかし、死を理解したとは言っても、僕が考える死のもたらす意味は、他の人達の考えるものとは大いに違っていた。

僕がそこで理解したのは、『死』は『無』ではないという真実だ。

だから死を恐れなかったのだ。死そのものより、死後人間はどうなるのかを考えることの方が、僕にとってはとても大事なことに思えたのだ。未知なるものへの強い関心は、この時に芽生えたと言っても良いだろう。

そのような考えに至ったのは、これから話す『屍者の霊魂』を見た事と、深く深く関わっている。

僕の懊悩はその時から始まった。

だが、今になって思えば『死んだら人はどうなるのだろう』と考える機会が、人よりも早く訪れたことに感謝すべきであったのかも知れない。

なぜなら『死』を考えるということは、同時に自分の『生』を掘り下げて考えることなのだから。

こうした考えに至ったのは、自然死以外の尋常ならざる死と接したこととけして無関係ではない。むしろその時の体験が、僕に多大な精神的影響をもたらしたことは確かだ。度重なる自然死以外の死(且つ身近な者の死)は、僕の恐らくは霊性を呼び覚ました。

霊魂に因って齎(もたら)されたであろう目の前の不可思議な現象を、何か特別なものあるいは怪異な出来事としてではなくて、(畏怖すべき存在ではあるが、)それでも尚ごく当たり前の、つまり自然なこととして、それを受けいれられたのだ。

つまり人は死して尚、その精神や想いは霊魂あるいは魂魄・精霊として、この世に留まることがあると知ったのだ。当然ながらそれらが僕に与えた影響は大きい。生死観は元より人生観や生き方そのものにもそれは多大な影響をもたらしたのだから。

 

そうは言っても、十代半ばから五十代半ばを過ぎるまでそれを意識することなく過ごして来られたのは、社会に出て、人並みに結婚をして、仕事や日々の出来事に忙殺されて、己を顧みる暇がなかった所為であろうか。

否、自分が曲がりなりにも心身共に健康体であったが故であろう。それが崩れたのが、五十代前半に立て続けにいくつかの疾病や怪我に遭い、入退院を毎年のように繰り返した数年間であった。そこで僕の人生観はすっかり変わってしまった。

例えば、入退院で度々仕事に穴を開けたことで、それまで築き上げた信用は一気に瓦解した。往年の評価であった着実な仕事ぶりも、非常時に発揮される人並み外れた忍耐力と問題突破力とその処理能力も、いつ穴を開けられるか分からないとなれば、使う側としては任せられないとなるのは必定であったろう。

一事が万事、そうして人望さえも失い影の薄い存在になり果てた。まあ冷静にものを見られる僕としては、そうした事態にさえ驚きも戸惑いもなかった。「然もありなん」と思っただけだ。何しろ死さえ恐れてはいない僕なのだから。

思えば、これまでただ単に我武者羅で活動的であったものが、本来の性である思索的でより深く考える性質に戻っただけである。つまり大病を機に人生観が激変したという訳ではなくて、ただ単に病気を契機として元の鞘に収まっただけの話なのだが。

そうは言っても、行動は相も変わらず即断即決即行動で表目は何一つ変わらなかった。だが行動を起こしてから間髪入れず、『果たしてその言動が良かったのかどうか』を顧みる事が多くなったのは事実だろう。

だがその一方で、悔いることは余りなかったのも事実で、直観で動くことが相も変わらず己の行動の最適解であることを改めて認識した。拙速は時に必要だという認識に変わりはないが、その行動を顧みるもう一人の自分の存在があってもいい。そう思いそれを実践した。僕はそうして、軌道修正を無意識に行っているのだった。

つまり、なぜそうしたのか、その理由は後から付いてくるという訳だ。ただし、心の内を中庸に保ち、邪心や欲望を捨て去ることでそれは為されるもの。それを教えてくれたのもまた、僕を守ってくれているであろう守護霊達の存在あってのことだと思う。

だとしたら己(我欲あるいは自身そのもの)を捨て去ることが肝要であろうという結論に至った。そうでなければ判断を過つことになりかねない。また、もしそれが自分の意思で出来ない状態になるようであれば、僕という人間をそこで終わらせることも、選択肢の一つとして考慮の内に入れておかねばならないであろうとも思う。

僕は窮地に陥ってもジタバタはしない。『捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ』という諺もある。『人事を尽くして天命を待つ』これが、正解であろうと思う。しかし「人事」の内容こそが大事なのであり、それに掛けた時間と労力と結果は一致しない。極端な話、無駄な努力をするくらいなら、却って何もしない方が結果が良いことさえある。

これは余談だが、恐らくは認知症にでもならない限り、僕は自分の死期を悟ったら従容としてそれを受け入れるだろう。自然の成り行きに抗うことはしないのだ。
だが裏を返せば、もし認知症の兆候が見られたら、僕はその時ある決断をしなければならないと思っている。つまり己の意思で己を制御できない状態になれば、それを従容として受け入れることはできない。

Onedish.jpg

僕の最近の食事は『Onedish』+『 α 』が基本。この日の昼食はいつもながらの自炊飯。外食は殆どしない。今日は午前中にじっくり煮込んだクリームシチューを作りました。お皿に盛って仕上げに生クリームとミルで砕いた胡椒をかけました。後はこれまた5種類の野菜が入った自家製サラダが付くだけのシンプル飯。
でも栄養とカロリーのバランスは考えていますよ。お陰で9ヶ月で18kg痩せました。ここ9ヶ月の間、妻の料理は殆ど頂いておりません。というよりも自分の体調に合った食事をすることに決めたので、作っても食べないのでは申し訳ないと思い、自分の食事は自分で作るだけでなく、僕に関する炊事洗濯等、『家事のさしすせそ』はすべて自分ですると伝えた結果です。
それだけでなく食事の用意以外は皿洗いだって洗濯だって妻の分までします。しかも手抜きは絶対にしない。だが然し、あまり頼られるのは好きではない。というより、それが当然のことのように思われるのは癪なので、毎回そうする訳ではありません。(僕は人の親切を当然のように受け取ったり、何かにつけ依頼心の強い人は嫌いです。ついでに言わせて頂けるなら、『独立独歩』が人としての基本だと思っています)
おかげで結構『主夫業』で忙しく暇を持て余すことはない。というより、一日が二十四時間では足りない日もあるくらいです( ̄∇ ̄)

 

<閑話休題>

前置きが長く、主題になかなか辿り着かないのは歳の所為。還暦を過ぎてからというもの、どういう訳か連鎖的に考えがあちらこちらに飛ぶ悪い癖が、ここでも出た形で大変申し訳なく思う。しかし無駄な話をしている訳ではない。

それは<其の壱>から前号の<其の㭭>も同様で、全てがすべて霊魂が僕にどう憑依し、どう作用した(影響を与えた)かを理解して貰うための前振りに過ぎない。

・・・という次第で、気を取り直して先に進むとしよう。

 

霊魂の存在を目の当たりにし、それを当然の事として受け入れて以来、他人と自分との違いが僕を大いに苦しめることになる。毎日多くの人と接していながらも、常に疎外感と孤独感に苛まれることになったのだ。今になって思えば、それは周りが僕を受け入れないということではなくて、自身が周りを拒絶していたというのが実態であったのだろう。

つまり他の人達とは違っていることを自身が認識して、他者と自身との間に精神的垣根を設けてしまったのだと思う。その意識が周りの人達に伝播して、尚更のこと、他者との隔たりが大きくなってしまったものと思われる。

そうして青年になって以降、普段の僕がそれを意識することはなかったが、むしろ無意識下だからこそ僕のこれまでの来し方にも、それは当然色濃く影響を与えていた。

 

幼年から多感な青年期までの四半世紀の間に、強烈に記憶に刻み込まれる死と遭遇していた。事故死、病死、自然死。死の様態は様々であった。そしてその全てで霊魂を確認した訳ではない。だが、死に際して霊魂が現れる事例に共通していることが、ふたつだけあるのを僕は経験から学んでいた。

一つ目は、僕が亡くなった対象(人とは限らない)から殊の外愛されていたことだ。ただ僕がそのことを、当初から明確に認識していたかというと、必ずしもそうではない。現に、はじめて『その死』を認識した祖父の場合は、数年間離れて暮らしていたがためと、あまりにも僕が幼かったが故に、生前祖父が僕を殊の外かわいがっていたことすら覚えてはいなかった。

二つ目の共通点は、僕に強烈な印象を与えた。なぜなら、それがこの世に有り得べからざる現象として僕の前に立ち現れたからだ。もし僕以外の誰かがそれを目視できたとしたら、それは間違いなく超常現象だと認識したであろうし、神秘体験に接して慄然としたであろうし、明らかに怪奇現象そのものであると捉えたはずだ。

だが如何せん、それは僕以外の誰一人、見ることは能わなかった。

 

はじめてそれを見た時、僕がどう思ったのかをまずは話しておこう。

それを見たのは小学校三年の晩秋だったと記憶しているが、実のところハッキリとは覚えていない。あれから五十有余年経っていて、僕の時間の記憶も感覚も随分と曖昧になってしまったからだ。

だがそれが尋常ではないもの、この世に有り得べからざる物であることと、それが後々の僕の人格あるいは人間形成に多大に影響を及ぼしたことは、無意識ではあったが明確に認識している。

それ以降も幾度かそうした経験を重ねて、直近では還暦間際にもそれを体験して、改めて鮮明に脳裏に焼き付いている。

それで、僕にとって霊魂とは何か、ということも再認識した次第である。

 

さあ、いよいよ皆さまお待ちかねの、霊魂の目撃体験のお話である。


05夕日.jpg

〜Fuji was not visible on that day.

 

それは明らかな心霊現象であった。

 

父方の祖父の葬儀で家族全員で里帰りしていた。当時の僕は確か小学校三年だったと思う。

通夜の夜だった。夜中に小用を催し、母に御不浄(トイレ)に行きたいと言った。

母は何かと気疲れしていたのであろう、姉に御不浄の前まで連れて行って貰えという。姉は不承不承という感じで御不浄の前までは連れて行ってくれた。だが先に部屋に戻るから用を足した後は一人で戻って来いという。姉は御不浄のすぐ脇にある、祖父の遺骸が置かれている大広間が恐くて、一刻も早く父母のいる部屋に戻りたかったのだ。

御不浄は廊下の端のあり、そこだけ裸電球が点っていて、後は真っ暗で都会の夜の明るさに慣れた子どもにとっては、余りにも不気味で恐かったのだろうと思う。

御不浄の前の廊下は、祖父の遺骸の置かれた大広間に接していて、そこは六枚の障子の引き違い戸で廊下と仕切られていたが、その真ん中の二枚の障子だけは開かれたままだった。大広間の照明は豆電球だけが灯っていて、その他は勧修灯も蝋燭の火も消され、線香さえも消されていた。たぶん火事を恐れてのことだと思うが、その光景は確かに子ども心には不気味で畏怖を感じるには十分だった様に思う。

ただ僕はそういうことには無頓着で、姉のように恐れを感じはしなかった。だから姉を先に帰しただが僕はその帰りに異様な光景に出会い、金縛りに遭ったようにその場を動けなかった。

僕が目の当たりにしたのは、怪異であった。

 

初めてそれを見た時の衝撃は、たぶん見た僕以外の誰一人理解はできなかったろう。幼かった僕は、後で父母や姉にそのことを実際に話したのだが、肉親である父母も姉もそれをまともに捉えてはくれなかった。

「何を寝ぼけたことを言っているの?」、という程度の反応しかしてはくれなかったのだ。

しかし実際にそれを見た僕は当然納得がいかない。だから父母や姉だけでなくおじさんやおばさんにもその話をした。だがそれで分かったのは、僕の話は子どもならではの妄想や絵空事だと思われてしまったことだった。誰一人僕の話に耳を傾けようとはしなかった。

帰りが余りにも遅いので探しに来て、僕が心霊現象を目の当たりにして呆然と突っ立っているのを見咎めて、体を揺り動かしてこの世に引き戻してくれた父でさえ、この世のものとは思えないその『現象』を見てはいないのだから当然だろう。

そうして僕に分かったのは、その物体が僕以外の誰にも見えないことと、話しても誰一人そのことを理解してくれないどころか、僕を何か得体の知れないものと捉えたり、あるいは胡散臭いものを見るかのように忌避されたことだった。

僕はそうした人々の反応を見てとても悔しかったと同時に悲しくなった。

無理解とは、拒絶あるいは、自分の存在を否定されることだと知ったからだ。

以来僕はちょっと変わった子、狐憑き紛いの神経質な子という風評が親戚筋では立ったようだ。

それまでの僕がごく普通の明るい感じの子どもであったからこそ、それ以降僕の顔つきが急に大人びた様相に一変して、余計に悪目立ちしたのかも知れない。


004.jpg

View of Mt Fuji from Funabashi Port.


では僕がそこでいったい何を見たのかをお話しよう。

それは用を足して父母と姉の寝る部屋に戻ろうとした時の話だ。

その当時の郷里の父方の実家は、御多分に漏れずに部屋の構成は田の型配置で、南に面した外壁はガラス障子の建具となっていて、天井は網代で、床は板敷きで構成された縁側廊下となっていた。その縁側廊下に面した田の型配置の各部屋は、障子あるいは障子小窓の付いた板戸で仕切られていた。

その日は雨戸は閉めておらず、星もきれいで月明かりは僅かにあったように記憶している。

御不浄から出て手水で手を洗い、さあ部屋に戻ろうと振り向いたその瞬間に、僕はギョッとした。なぜならその縁側廊下に、行きとは異なった、明らかな変化が見られたからだ。

行きに御不浄に来た時には、大広間には豆電球しか点っておらずだいぶ暗かった筈だ。だが用を足し御不浄の扉を閉めて、手水のあとに振り返って見た廊下には、行きには見えなかったはずの仄暗い光が大広間から差し込んでいた。

色は明るい翠色と言えば良いのだろうか。そんな光が開け放たれた障子戸の間から漏れていたのだった。しかもその光は揺らいでいた。確か行きに『勧修灯』は「点灯も回転もしていなかった」筈だし、もし点灯していたとしてもこんな色ではなかった筈だ。走馬灯のようにきらびやかな色が交じっていなければならないのに、それは翠一色だったのだ。

一旦は身体が固まってしまった僕だが、それでも怖ず怖ずと大広間の前の廊下に近づいていった。

そうして僕が、板敷きの縁側廊下から開け放たれた障子越しに見たのは、祖父の遺骸の横たわる布団の真上に浮かんでいた、何とも形容しがたい物体だった。

それはゆっくりと回転しながら空中を浮遊していた。

浮遊しているとはいっても、一カ所に留まらずゆっくりと、尚かつ上下しながら移動していた。

それを見た瞬間に僕の体は金縛りに遭ってまったく動かない。それこそ手指の一本たりとも動かせなかった。そればかりか、元々大きなクリッとした目ではあったが、恐らくその時の僕の眼は、更に大きく見開かれていたことだろう。

よく見るとそれは半透明で、翡翠色をした燐光を放つ物体で、二つの四角錐の底面同士を貼り付けた八面体の形であった。八面体の角は鋭角ではなく丸みを帯びてはいたが、それに触れるととても痛いだろうなとなぜか感じた。

ここから逃げ出したかった。しかし体が固まって手指一つ動かすことすら出来ない。

だがそれは明らかに僕を呼んでいた。声にならぬ声で、僕を誘(いざな)っていたのだ。

だが僕の体はまったく動かない。

するとその翡翠色の発光体と僕との間で綱引きが始まったという感覚を明確に感じた。それはその発光体と僕の身体との間で始まったのではなく、魂と魂との綱引きが始まったのだという感覚だった。

後で考えるととても奇妙なのだが、僕はそれを第三者の立場で、僕の身体と翡翠色の発光体との間に立って、それを俯瞰している感覚を覚えていた。実際にはあり得ない話なのだが、僕の体験したその時の感覚は、まさにそんな感じだった。もしかしたら僕はその時<幽体離脱>体験をしていたのかも知れないが、この事象はこの時が最初で最後の体験であったので、今以てその実体は分かっていない。

だがこの時のジッとそれを凝視するしかない体験が、僕の心の内に強烈に残らないはずはない。

以来、霊魂は翡翠色をした発光体だという僕の認識は揺るがない。

 

これは余談だが、中国や朝鮮半島や日本で墳墓に翡翠の勾玉や髪飾りを副葬するならわしは、霊魂の存在や死後の世界を極東の古代人が信じていた何よりの証拠だと僕は思っている。

 

その翡翠色をした発光体が、田舎家の十八畳の広い和室の中で、ゆっくりと上下し回転し、ゆらゆらと祖父の亡骸の周りを浮遊するその様を、あなたは果たして想像できるだろうか?

僕はそれを実際に見た。

後年になって分かったのだが、僕にとってそれは尋常ではない死を意味していた。しかもそれら死の数々は、この時以降に接した数々の死の様態とは明らかに異なっていた。というよりも青年期以降、僕はそうした様態の死に二度しか接していないし、その他の死には感応していない。

それからすれば、恐らくはその能力は普段は影を潜めているだけなのだろう。しかしいざ『その時』が来れば、恐らくは、否、必ずまた『発動』する。

 

そして最後にその様態の死に接したのはわずか七年前だ。

 

初めは恐れを以てそれらの死を受け入れた。だがそれが度重なれば死というものに対する認識を変えざるを得ない。以来僕にとって死は特別なものではなくなった。ごく自然で親しいもの、しかしそれと同時に畏怖すべき存在であり、けして敵対してはならない『相手』でもあった。

 

何しろ『守護霊』なのだ。

 

それゆえかどうかは知らぬが、幼い頃の僕が人の感情を鋭敏に感じ取ることが出来たのも、これら霊魂が知らせてくれていたが故であろう。だからこそ相手が実際に声に出さなくとも、言葉というか音声で相手の意思を感じ取ることができたのだ。

もう一度言おう。実際に誰かが声を出して語っている訳ではないが、誰かの心の内の声、つまり本音・本心が、音声として僕の耳に届き、明確な形ある言葉と文章を伴って聞こえていたのだ。

ただ大勢の中だと、それが誰の感情であるかを見極めることはできなかった。だがこの事象は超能力というのとは違うものだと認識している。なぜなら、常時それを感じることはなかったし、それは幼少期に限った鋭敏で特別な感覚だった。しかも感覚的なものだから、それを他人に明確に語ることは困難だ。

幼時や青年期(今考えると「ティーンエイジ」の間)に限ったことではあったが、これは誰でも本来は持っている根源的感覚であり潜在能力なのだと僕は思っている。しかし多くの人はそのことに気づくことなく一生を終えてしまうのではないか。それが情況によって現れたり消えたりするし、捉えどころがないのなら尚更だろう。

 

冒頭でも語ったように、そんな僕には死は忌避したり忌みするものという認識はなく、ごく自然なこと、日常だという認識がある。それ故に。親しい者(人間とは限らない)が亡くなれば、最後の時を一緒に過ごしてあげたいと思う。

具体的に言えば、僕は過去において、死んだ者のすぐ傍らで一度は立ったままで過ごし、その後は三度眠ったことがある。つまり亡骸の傍に居たり寝たりしたのは一回のみではなく四回であり、時期も七歳か八歳頃、十三歳、二十七歳、六〇歳と異なっている。そのうち、霊魂を明確に見たのは厳密には三回のみだが、感覚的には四回あったと認識している。

しかも、それらはいずれ劣らず、スピリチュアルな体験だったと言えよう。

 

知っているかい?

 

誰かが死んで暫くの間は、霊は親(ちか)しい者を死の世界へと誘(いざな)おうとするのだよ。

 

人が死んでとは言ったが、これは何も人間に限った話ではない。例えばペットなどでもあり得る。つまり生きとし生けるものと強い繋がりと関わりがあるならば、誰でも経験する可能性はあるということだ。

こうしたスピリチュアルな実体験に基づいて、僕ならば確信的にそう言える。

ただそれを体験というか体感というか、認識できる人と出来ない人がいるようだ。

要は生前どれだけ亡くなった者と深く拘わっていたかがその鍵になる。故に、死んだ者と係わりが深ければ深いほど、引き摺り込まれる恐れは大だ。

まあ屍者との生前の関係が良ければ良いほどそれを回避できる確率は高いし、そうであれば引き摺り込まれるどころか、僕のように却って『守護霊』となってくれることだってある。

ところでどうして屍者の傍らで眠る体験をわざわざする必要があったの?・・・という質問が来そうだが、僕は感じることがあり敢えて傍らで眠ることを選んだのだ。

今になって考えると、どうも僕は亡くなってしまった者と、もう一度話してみたかったらしい。

つまり僕は関わりが深かったからこそ、霊体の傍で一晩一緒に過ごすことを敢えて選んだのだ。

 

既述したが、初めてのスピリチュアルな体験は七歳の時だ。以来僕は霊魂の存在を信じている

物心ついて以降に僕の前に現れた霊魂に問い掛けたところ、どうも霊魂には大きく分けて二つに分かれるらしい。すなわち、悪しき想いを懐き人々に災いをもたらす『悪霊』と、その真逆の『善霊』だ。

僕には悪霊に会った経験がなく到底その違いが分からないのだが、感覚的にそれぞれ『怨霊』と『精霊』とに置き換えて考えている。

幸いなことに、僕の前に現れたのはすべて『善霊』、つまり『精霊』だった。どうやら生前のその者との接し方で、『悪霊』になるか『善霊』になるかが決定づけられるように思える。ちなみに『悪霊』は<あくりょう>、『善霊』は<ぜんれい>と呼ぶ。

 

ここまで書いたことを信じる信じないはあなたの自由です。

何しろ見える人には見えるけど、見えない人には一切見えないのだから。

でも、見えない人は今際の際にいても尚、死期を悟れないだろうと思われる。

なにしろ霊魂がそれを知らせてくれることはないのだから。

でも見える人には見えるのです。


前述した通り、霊魂は緑の燐光を放ってゆっくりと回転しながら、空中を浮遊している。

そして観察者(僕のこと)が感応すると、霊魂もそれに応えて必ず感応します。

観察者=霊媒が精神的に強く感応すると、浮遊する霊魂の回転も輝きも増し辺りを照らします。

聞けばまるでミラーボールのようですが、前述した如く実際にはミラーボールのような疑似球体ではなくて、四角錐を二つ合わせた八面体で、緑の燐光色を放つ半透明な物体です。それが周りの壁や天井や床を淡い光で照らしている。その光と影が、発光体の回転と移動に伴って、まるで勧修灯のように揺らいでいる。

あれを見て驚かない人間はまずいないだろう。そして大概の人は恐怖しか抱けない。

しかも金縛りに遭ったように終始指一つ動かせはしない筈だ。それこそ全身全霊を以てこの事態に抗おうとしなければ、意識までも吸い込まれそうな、あちらの世界に持って行かれそうな、そんな恐怖さえ覚える戦慄的体験である。

 

だが僕が今ここに在り、こうして当時を語れるのは、その抗しがたい情況から、自らの強固な意思で、生還を果たした故である。

 

 

 

・・・・・・・・!
 
 
 
知ってました?
 
 
 
あなたの周りにも霊魂がいることを。
 
 
 
〜TODAY'S SERVICE SHOT.〜

002.jpg

〜Apparently we're saying goodbye to this ballpark.〜

 

 

次回は最終回です。

最終話の内容を少しだけ予告しておきましょう。

僕が霊魂を見たのは四回で、厳密に言うならばそれは三回だけなのですが、最終回はその中の直近に見た霊魂の話です。

直近とは言っても七年前の話です。しかし今なお記憶は鮮明で、細部までよく覚えている。

しかもその霊魂が、人ではなかったとしたら、あなたならどうしますか?

 

僕はそれを経験したのです。

 

そして、もう二度と逢うことのないその存在に、涙した。

 

 

 

 

〜2023/03/08 11:30 追記〜

今読んでいる恩田陸の小説は『ドミノ』。

112頁まで読み進めたが、どうも息つく暇もないほどのドタバタコメディーらしい雰囲気。

読んでいて一定のリズムというか、心地良いテンポを感じるのは私ばかりではないだろう。

推理・サスペンス、SF、コメディー、恋愛もの、音楽もの、その他諸々。。。

恩田作品はジャンルが幅広く、読む者をけして飽きさせない。

まことに多才な作家だと思う。

ところで、購入した迄は良いが、まだ読んでいない恩田陸作品が16冊もある。

恩田作品だけでなく原田マハとか、その他数多の作家の本を、買ったまま<積ん読>状態にして幾星霜。その数200冊以上。。。生きている内に果たして読み切れるだろうか( ̄∇ ̄)

 

〜2023/03/11 7:05 追記〜

上記、恩田陸の『ドミノ』読み終えました。この作家の多才さに脱帽です。初めはまったく別々だったお話が、テンポ良くパラレルに展開される。その一つひとつに当初何ひとつ繋がりはない。だがそれぞれの物語はまるでドミノ倒しのように、あるところで分岐し、またあるところで合流し、付いたり離れたり一瞬交差したりを繰り返し、最後は全ての登場人物が東京駅の一カ所に集まり大団円を迎える。その登場人物の多さと、全ての人物が生き生きとして描かれている点で、小説の常識(セオリー)を覆し尚かつ常軌を逸していて頭が混乱する。だがしかし、この緊迫感とテンポの良さと、それでいてコミカルなこの物語、、、読後感は、素晴らしいの一言に尽きる。

ただ、たとえSFだろうとリアリティーを求める僕としては、あり得ない事実を(他でもそうだが特に、角川文庫版<平成28年5月25日36版発行分>、233頁から始まる『65』)で一つ見つけてしまいました。それと、手痛い記述ミスを同36版273頁、8行目に発見。それが何かは興味ある方は調べて僕に答えをコメントレスポンスしてね!

 

WBC、連夜11時過ぎまでTV観戦して寝不足気味。ダルが3点取られた時は、やはり韓国は本気だなと思ったけれど、終わってみれば13対4の圧勝。このまま三連勝で、アメリカに行って、そのまま準決勝も決勝も二連勝でウイナーとなって欲しいと願うばかり。

 

今日はあの日から12年。

岸田政権の国民の生命と安全を蔑ろにした、原子力政策の180度方針転換が腹立たしい。

 

2023/03/11 10:22再追記〜引き続き、恩田陸の『麦の海に沈む果実』読み始めました。

 

2023/03/12 9:00 再々追記〜僕の恩田陸読書歴は浅く、直木賞と本屋大賞W受賞の、『蜂蜜と遠雷』から読み始めました。というより、その後『蜂蜜と遠雷』のスピン・オフ作品である『祝祭と予感』も含めて暫くは読んでいなかった。

その頃は、女子が書いた小説(僕は『女流作家』という言葉と区分け(分類)は『死語』だと思っています)といえば、「イヤミスの女王」<湊かなえ>の作品と、絵画小説が多い<原田マハ>作品か、昔からずっと読み続けている<宮部みゆき>の小説ばかり読んでいましたから。

その後しばらく間を開けて読んだのが『常野物語シリーズ、<光の帝国><蒲公英草子><エンド・ゲーム>の三部作』です。『夜のピクニック』も『六番目の小夜子』も既読です。他にも既読はまだまだあります。

しかし、それでも購入していながら未だ読んでいないものが、まだ16作品あるということです。

そんな僕ですが、今まで読んでいて一番心に残った恩田陸作品はライオンハートです。こんな言い方はおかしいかも知れませんが、《実に恩田陸らしくない小説》です。何しろ”SF小説に名を借りた純愛小説”なのですから!

好きな作品は人それぞれでしょうが、これが僕の現時点での【イチ押し】です。

 

 

 

『屍者の傍らで眠る』の最終話、昨日から書き始めたばかり。

小説風に書き上げる積もりです。

ではではご機嫌よう。

 

 2023/03/13 15:15 再々再追記 〜シリーズ最終記事の公開は3月15日午前0時を予定していましたが、<小説風に書き上げる>と宣言した時点で、相当無理があったことが記事の書き直しとその推敲をしていて判明しました。

見通しが甘かったと反省しきりです。

僕は、書き直す以上いい加減なものは公開したくないし、他から根拠の定かでない怪しげな資料を持って来て、それをさも自分の考えであるかのように偽ったり、事実に蓋をしたり糊塗する事によって読む者を欺き騙し誤魔化すような、欺瞞かつ偽善的な「押っつけ仕事」は元々しない主義です。

よって、公開予定を改めて、『2023年3月18日<2023/03/17 21:00再設定>3月20日午前0時』に再度設定し直すことにしました。力が至りませんでした。期日を守れず申し訳ありません。


誠実さを基本とした、納得のいく仕事をしてこそ、皆さんの共感を得られるものと考えています。

その点改めてご了解を賜りますよう願ってやみません。

 

 

 

コメント(68) 
共通テーマ:日記・雑感

『屍者の傍らで眠る』〜其の㭭 [現れ出でるは・・・]

パートナー.jpg

〜PAIR AND A STALKER.〜

 

 

 

 

霊魂の存在を目の当たりにし、それを当然の事として受け入れて以来、他人と自分との違いの大きさが僕を大いに苦しめることになる。それと同時に、その真逆ともいえる恩恵に預かって来たのもまた、事実というものであろう。

青年になって以降、普段の僕がそれ(霊魂の存在)を意識したことは殆どない。だがそれはあくまでも意識の表層での話であって、むしろ無意識下ではその存在が少なからぬ影響を及ぼして、ありとあらゆる場面や局面において意思決定の根幹を支配していたに違いない。

そう思えるのは、外的要因によってなされる己の行動や決断の切っ掛けとなるべき何らかの判断を、他人の目からすれば自分の意思で決定したという風にしか見えないし思えないのに、僕からすれば実のところ己の意思に因ってそれが為されたという感覚がまったく以て希薄だったからだ。

僕はそれを便宜上『直観』と称しているが、そこに論理的あるいは合理的なものは希薄だし、少なからぬ経験もその判断の元にはなっているのだろうが、結局のところ自分のうちに確とした行動原理やその判断の基準となったものがあって、そうしていた訳ではないからだ。

まあ何を元に判断をしたのかと人に聞かれれば、『直感!』と言うことにしている。

という次第で、確たる信念も確証も理路整然とした考えすらも無しに、こうしていつも何かに導かれるように即断即決で答えを見いだし即座に次の行動に移せるのは、己を守ってくれている霊魂の導きによるものであろうと、いつしか僕は思うようになっていた。

つまり霊魂の存在を確信して以来、守護霊の存在をも僕はずっと信じている。

当然ながら、これまでの来し方にそれは色濃く影響を与えていたであろうし、今こうしている時にも、これからの行く末にも影響を及ぼすことは必至だろう。

僕の心の動きについてついでに話しておこう。上記の思惟を経ずして直観に従うということも然りながら、僕は理解しがたいことや不可思議と思ったことは捨て置かない質(たち)だ。疑問を持ったらそれを解決せずにはおれない性格なのだ。それだけでなく、幼い頃に自分の身に起こった様々な不条理な出来事ゆえか、他人の僕への理不尽な振る舞いも、不正で邪な行為といった悪意に基づいた言動も、一切合切見逃さなかった。

なぜなら知らぬ事を捨て置くと、必ずそれが災厄として自身の身に降り注ぐと知っていたからだ。

その様に自身の周りの人々の言動さえそうなのだから、人智を超えたものなら尚更だろう。

そして何事も決着が付くまで頭の中からけして消えることはない。つまり忘れることはない。

 

 

 

まあそれほどまでに真相あるいは真実の究明に熱心な僕ではあるのだが、その一方で一度それを知ってしまうと、途端に興味を失ってしまう、それと同時に大方は記憶することなく忘れてしまうところがある。

まあ僕からすれば、一つのことに拘泥する弊害に競べれば、(自らの意思と努力に因って解決を見たら、)適宜その場その場の状況を見て記憶に残すものと忘れても良いものとを峻別するのは、理に適った話ではあるのだが。

ここでちょっと『記憶』と『忘却』について、視点を変えて話をしてみよう。

思うに記憶力というものは、忘却力(『忘れる能力』という意味)と対であってこそ、増強されるものであるとも言えよう。しかしそうして忘れ去られた記憶でさえ、実は完全に消失してまうわけではない。

人が何かを記憶するという現象を端的に説明すると、『記憶』とは、視覚・聴覚・触覚・嗅覚・味覚の五感から脳に入った情報を、一旦『海馬』を通して整理整頓して、その場で使う記憶と、そうでない記憶とに振り分け(記憶をインデックス)する脳内の生理現象である。

これは余談だが、この『五感』と『知覚』とを混同してしまう人が少なからずいるようだ。だがこの二者はまったく異なるものだ。『知覚』とは、五感に因って感じ取った外界の刺激に、『意味づけするまでの過程』を指して言う言葉だ。

例えば熱湯に触れて熱いと感じるのは、触覚によってその物の温度が気温や体温よりも遙かに高いと、脳が(五感を通した外界の刺激に対して)『意味づけ』をしているからに他ならない。つまりこれこそが『知覚』というものの正体だ。

もう一つ余談として付け加えるならば、ニンニクのにおいを嗅いで、それを「臭い」と取るか「食欲をそそる良い香り」と受け取るかは、人それぞれの『知覚』に因って変化する。つまり五感で得たものは本来は一つの筈なのに、それぞれの『知覚』を通すとその答えは十人十色になる。

だから視覚や聴覚で得た情報を十人に聞いたら十通りの答えが返って来るのがフツーである。なぜなら人間には元々客観性など備わってはいないし、その者固有の感情がすべてを支配し主観的にしかモノを見られないし感じられないからだ。

ゆえにTVやインターネットから視覚や聴覚で得た情報が人それぞれで認識が異なっているのは、この『知覚』が原因にあると考えるべきであろう。そこがあらゆる意味で『正常』でないと、すべてが『歪んで感じられる』ということになりかねない。

 

 

 

『知覚』について、言い方を変えてもう一度説明しよう。

実のところ『知覚』と『心理』は密接に関係しているので、『知覚』で得た情報という刺激は、その者の持つ『心理』によっていかようにも変化・変質してしまう。

極端な例で申し上げるならば、先ほどの熱湯に触れた場合の知覚について言えば、痛みや苦痛を感じる者が過半であろうが、それを快楽や愉悦と感じる倒錯した感覚の持ち主がいても、ちっともおかしくない今の世の中である。それは何も日本に限った話ではなく、古今東西世界中もどこに行っても変わらない真実だ。

人というものは、知覚とか心理そのものに人それぞれの性癖などのバイアスが掛かるのが常であり、故にその答えが集約されることはない。という訳で見方は千差万別なのが自然な姿というべきであろう。だが昔はそこに暗黙の了解というか一定のルールがあって、混乱を来すことはなかった。

しかし今はそれがない。つまり無秩序状態なのだと思う。それは皆が皆自信がなく、心の拠り所までなくしているからで、それこそが、まさに現代社会に色濃く影響を及ぼしていると僕は考えている。

しかもその根本原因が、僕たちを取り巻く『情報化社会』にあるのは間違いないところであろう。

 

 

 

閑話休題。

 

『記憶』の話に戻そう。『記憶』とは脳内の生理現象であるとは先に言った通りである。

今、目の前で起きている事象に対応する記憶(=短期的記憶)は海馬に留め置かれ、その他の(必要と思われる)記憶(=長期的記憶)は、一旦『大脳皮質の側頭葉』にある『記憶の抽斗』に、海馬の指示の元に整理整頓(インデックス)されて納められる。

そして一旦記憶の引き出しに収められて以降、その記憶に合致あるいは類似した、五感を通した事象が再びその者の目の前に現れた時に、再び海馬がその抽斗から適宜インデックスされた記憶の抽斗を瞬時に開けて、その最適解を思われる記憶を海馬に呼び戻す一連の作業。・・・これら決められた手順で読み込まれ、呼び出される脳内活動そのものが、『記憶』というものの正体だ。※しかも前出の『知覚』というフィルターを通した記憶だ。

ところで、その側頭葉は無尽蔵に記憶を貯め込められる訳ではない。容量こそ人それぞれではあるが、限界・限度というものは必ずある。水瓶に溜められる水量は、その容量以上のものは、当然ながら溢れ流れ出てしまう。記憶もそれとまったく同じだ。

だから通常であれば、終わったことはすぐに忘れなければならない。そうしなければ新しい記憶は入って来ない。それでも無尽蔵に貯め込める人間がいるとしたら、それは天才を通り越して、狂人と化してしまうだろう。「天才と狂人とは紙一重」とは恐らくはこの事を指している。

つまり人間は、忘れることによって、未来に向かって生きていけるのだ。

学生時代を思い出して欲しい。試験が終わるとそれまで蓄えていた知識の過半(特に答えに至る過程の記憶)は消失して、記憶の隅にも残ってはいない筈だ。しかしなぜか(日常生活で役に立ちそうもない)数学や物理で覚えた公式とか、歴史で覚えた年号とかは、いつまで経っても記憶の底に残っている。

それこそ還暦を過ぎても尚残っているものも少なからずあるのは事実だ。事故に遭って脳の一部(特に海馬や側頭葉)が損傷したり、加齢や病的な要因により認知症にでもならない限り、記憶はたとえ忘却の彼方にあろうとも、適宜記憶の抽斗から海馬に呼び戻すことは可能だ。

ただし、いつ如何なる時もそれが瞬時に行えるように、脳を活性化させた状態に常に保っておくという条件を満たさなければ、記憶は何れ失われる運命にある。だから若い頃の僕は、重要と思われる事柄は何度も何度も反復して唱え、記憶が大脳皮質に『定着』するまで徹底して覚えるように心掛けていた。

記憶を失うあるいは記憶が退化するのは、記憶の抽斗を度々開けて使い続けていないからである。海馬と大脳皮質の側頭葉との間を継ぐ神経繊維上を、記憶を運ぶシナプスが頻繁に行き来しなければ、やがてその太い神経繊維という大通りは廃れ、新しい幹線道路やバイパス道路(それが記憶が通る道とは限らない)に取って代わられて、いずれ廃道となってしまうのは必定だろう。

これらが記憶がなくなる、あるいは忘れてしまうことの正体だ。幼い頃より壮年まで、他人より抜きん出て記憶力が群を抜いた存在であった、その僕が言うのだから間違いない。

ところでこの記憶のメカニズム同様に、『熱しやすく醒めやすい』のも、僕の特徴の一つである。

 

 

 

という訳で、『常ならぬもの』に対しての好奇心が旺盛で、人並み外れた興味を示すのが僕に取っての常であった。

そして『常ならぬもの』の最たるものは、殆どの者が生きている内に一度ならず経験するであろう、自分以外の人や身近な生き物の『死』だと考えている。

それに『死』は万人等しく不可避だ。たぶんこれに異論のある方はいないであろう。

更に言うならば、『死』と『霊魂』の存在とその関係は、不可避・不可分であろうと考えるのが僕である。

何故ならそう考える根拠というか「よすが」になる経験を、僕はその場に臨場しその正体を見て知って、更に言えばそれに呼応し共鳴し、その結果として全身全霊を以て感応しているからだ。

しかもこうした霊感が発現するのは、身近な者の死に接した時以外あり得ない事も分かっている。

 

そして僕はあの日それを見たのだ。

 


 

 

・・・・・・・・!
 
 
 
知ってました?
 
 
 
あなたの周りにも霊魂がいることを。
 
 
 
〜TODAY'S SERVICE SHOT.〜

波打ち際に立つ!.jpg

 

 

この先は次回。

 

我ながら本題になかなか入らず、話題を引っ張るなぁとは思っている。

これは本意ではないが、本題に入る前に人の心とは何か、心理とは、精神とはと、

改めて考える必要があるのではないかと思い、前置きばかりでなかなかその先に進まなかった。

僕は、霊魂とか心理現象とかスピリチュアルな体験というものを、興味本位で見て欲しくない。

況してやその存在を疑って欲しくはないのだ。

人には見えないものの中に真理はあると僕は信じている。

事実を知り、真実を見極め、真理を希求するならば、まずはすべてを信じることだ。

そのためには我欲を抑え、自我を抑え、自然体になるまで己を律することだ。

然すれば見えないものも何れ見えるようになるであろう。

人には得手不得手があるのと同じく、霊感の有る無しも当然あるので確約はできないが( ̄∇ ̄)

 

<ここで皆さまへのお知らせです>

同シリーズは全10話を予定しているので、残りはあと2話となります。

その後の予定は未定。

もしかしたら別ブログ(SSブログとは限らない)で全く別の話題について書くかも知れません。

しかも『ブログ小説』という形でのお披露目になるかもしれません。

法的な問題があり、事実や真実を書けない場合は、そうした形を借りるしかありませんから。

然しながら、どうであるにせよ、僕は法を遵守することだけは皆さまに今から宣言しておきます。

そして僕は『有言実行』の人です。

 

 

 

コメント(14) 
共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。