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『屍者の傍らで眠る』〜其の什 [おしまい]

対岸の灯.jpg

〜CITY LIGHT ON THE OTHER SIDE OF THE SEA.〜

 

これはノンフィクション小説である。つまり書かれている内容は架空ではないということだ 。しかし小説という読み物であるだけに、記載内容の全てをつまびらかに取り上げて、それら一つ一つに関して、実際にあった出来事と一字一句相違しないとは言い難い。また直近の出来事があってから七年余りが経過した今となっては、事実と記述内容とを完全に合致させる事は不可能に近い。否、出来ないと断言しよう。つまり書かれた文章に、小説の体裁を整えるためや、記憶の欠落を補うための多少の脚色があることは了解願いたい。だがたとえそうだとしても、書かれている内容は事実から<1ミリも>逸脱することはないし、たとえ文章の一つ一つを取り上げたとしても、この小説を通して全体を見渡したとしても、その文意も言わんとするところも一切脚色はないと断言しよう。だから著者はこれをノンフィクション小説として自信を持って公開することにした。

ただし掌編小説(所謂『ショートショート』)くらいの長さはある。ゆえに心して読まれよ!

 

 

 

"Fact is stranger than fiction." ~ Written by George Gordon Byron

 

 

 

それはまだ外は凍てつく二月のことだった。

 

前年までの二年近く、僕は遠く離れた地で単身赴任をしていた。

その間は妻が”我が息子”♂(イニシャルは『U・B』、略して『B』または『Bちゃん』)の面倒を見てくれていた。妻は実は動物が苦手であった。

しかし幾ら拠ん所ない事情があってそうしていたとしても、日々その面倒をみていれば愛情も愛着も湧く。だが妻は(元々動物が苦手であるだけに)それでも身体を撫でてやることは出来ても、抱っこをしたり一緒に遊んであげることは出来なかった。

僕が家を留守にしている間、妻は一日二回我が子『B』を外に連れ出したそうだ。しかし、嬉しさの余り落ち着きなく動き回る『B』にハーネスもリードも取り付けることが出来ず、いつも小さなクレートに入れて自転車の前カゴに乗せ『お散歩』なるものをしていたそうだ。だがそれでも我が子は、妻がお散歩の支度をし出すとソワソワしだし、ケージの中を行ったり来たり飛び跳ねたりと、その小さな体全体で歓びを目一杯表現していたという。

今では妻が声掛けする度に、お腹を見せてナデナデをねだるまでになっていた。それからすれば、我が子は妻も第二の飼い主としてようやく認めたようだ。そうして動物嫌いの妻も、我が子『Bちゃん』だけは特別・・・と思うようになっていた。

 

その妻と我が子の間柄が親密になった頃、僕はようやく任期を終えて我が家に帰って来た。

僕が玄関の扉を開けて帰って来た時の、我が子のあの喜びようは、まさに狂喜乱舞という有り様だった。小型犬なのに90cmはあるケージの木枠から身体が飛び出てしまうほどビョンビョンと飛び跳ねて、ワンワンと騒々しくも派手に歓迎してくれたのは、今想い出しても微笑ましく、尚かつとても嬉しい光景だった。

 

それからの一年はあっという間に過ぎ、次の年を向かえた。

単身赴任を終えてからは仕事で多忙ではあったがそれは言い訳にはならない。ある日僕は今ではすっかり我が子『B』の面倒を放棄して妻任せにしている自分に気づいた。人間の年齢に換算すれば、もう老齢といってもよい我が子の毛並みにはいつの間にか艶がなくなり、白い毛も目立つようになっていた。それが気にはなっていたが、他のことにかまけて今日の今日まで知らぬ振りをしていたのだった。

しかし幾ら僕が”育児放棄”しても、僕を慕う我が子は健気であった。僕の姿を見掛けたら一時も目を離さず、その姿を追い続けるのだ。

その日は非番で少し心にも余裕があった。久々に体を撫でてあげることにした。

ケージから掬い上げ、そうしてあぐらを掻いた脚の間に寝かせてお腹や背中を撫でてあげると、我が子はとても気持ちよさそうに目を閉じるのだった。だがそんな幸せな一時も、僕の手に触れたあるものが原因となって、途端に不安に取って代わってしまった。我が息子の背中を撫でた指先が、首根っこのところに、『ある違和感』を捉えたのだ。とても小さな痼(しこ)りだったが、どうも健康な皮下の組織とは明らかに違うように思えた。それは寒い二月の朝のことだった。

その痼りは小豆大の大きさであった。色々触って確かめた結果、腫瘍だろうと推測した。

過去にも腫瘍が出来たことはある。だがその時は二ヶ月で腫瘍は消えていた。それがあったのでしばらく様子を見ることにしたのだが、三ヶ月もしないうちに痼りは更に大きくなって、今では一晩水に浸けた大豆大の大きさにまで成長していた。しかも今度は背中の下肢の付け根辺りにも小さな痼りが出来ていた。恥ずかしながら、発見したのは五月初旬の旅行先で『B』を預けた、ペットサロンのトリマーさんだった。

もしかして転移? すぐに悪性腫瘍(皮膚ガン)を疑った。

それで旅行から帰ってすぐ、行きつけの動物病院に連れて行った。診断で言われた病名はリンパ腫だった。だが良性だろうということであった。

『えっ、良性のリンパ腫なんてあるの?』

リンパ節は全身に存在しそれらがリンパ管で繋がっている。隣接する血管ともツーカーの仲だ。そこにリンパ腫が増殖すれば容易に全身に転移してしまうのではないか。そんな素朴な疑問が脳裏を過った。だが、獣医師の言うことなので信用するしかなかった。

<しかしその診断は結局は誤りであり、その後も医師の見立てはことごとく外れた>

その際、医師から「大きく成長しているように見えるのは、リンパ腫が血液を養分として掻き集めているからだ」と、説明があった。「気になるなら血抜きをしましょうか?」、軽い調子で提案された。それで一番大きな腫瘍の一部をカットして血抜きをして貰うことにした。

・・・確かに血抜きで腫瘍そのものは小さくなった。だがカットした患部からの出血が止まらない。それは獣医師が少し慌てるほどの大量の出血だった。それほどリンパ腫という癌細胞は、我が子の血液を自分の細胞の周りに集めて、それを養分として急成長していたようだ。

医師が急いで患部を数針縫ってようやく出血は止まったかにみえた。

医者は僕を見てニコリと笑い、「リンパ節の周りは太い動脈が沢山通っているのでカットには危険が伴うんですよね」と補足的に説明した。はじめにその説明がなかったので、僕にはそれが言い訳に聞こえた。出血箇所の太い血管やリンパ管はちゃんと塞いだのだろうか? 医療についてまったくの門外漢の僕にはそれが確認できなかった。

我が子の首の周りは、看護師数人掛かりでガーゼやタオル等で一応は血が拭い取られていた。だがそれでも完全には拭い切れてはおらず、患部周辺のみならず、片側の前脚まで血の色で朱く染まっていた。さらに医師の白衣や看護師のエプロンにまで血は飛び散っていた。

我が子の毛色は茶と白の斑だが、白の部分が体毛の殆どを占めており、そうした白毛部分に付着した血の汚れは殊更に目立った。そういえばステンレス製の体重計を兼ねた診察台まで血だらけだった。拭ったガーゼやタオルも血でぐしょぐしょだ。

よくもまあこれだけの血が流れたものだと思いながら、人間の血液に換算したら1リットルを越える血液が失われたのではないかと思った途端、ふと恐くなってしまった。人間の場合全身を巡る血液の量は約3リットル。その1/3の1リットル以上失血すれば、緊急に輸血をしないと失血死しかねない。僕には五時間にも及ぶ切開手術の経験があるから当然それを知っていた。しかし献血制度もない犬の輸血は事実上不可能だ。その事実を知っていたからこそ恐くなったのだ。

止血後に医師からは今後の治療方針についていろいろな説明があった。患部に外部から病原菌が入って二次感染になる恐れもあるので、三日間は患部を洗わないようにと医師から伝えられた。散歩も出来ればしないで欲しいとも要望された。当然その指示に従った。

それと同時に念のためという名目で医師はリンパ腫の一部(検体)を検査に出すと言った。<良性>と診断したのにである。

そうして医師の診断と要望に従い暫く様子を見ることにした。だが一ヶ月もしないうちに腫瘍は新たに転移して、今や背中に四ヶ所も病巣を増やしていた。そうした顕著なリンパ腫の塊だけでなく、背中を中心に粟粒様の小さな塊が夥しく出来ているのを僕の指先は捉えていた。人間の指先は殊の外敏感だ。その指先が我が子の異変を察知し、その危険性をいち早く僕に知らせていた。

・・・『これは只事ではないぞ!』と。

更に一ヶ月後、嫌な予感は的中した。『疑念は必ず悪い形で実現する』という予感だ。

アメリカの研究所と提携しているというラボに出した検体の検査結果が届いたとの連絡が動物病院からあった。医師はそれで相談したいことがあるので我が子『Bちゃん』を連れて病院に来て欲しいという。そう言われれば行かざるを得ない。

結論を先に言おう。・・・結果は『悪性リンパ腫』だった。しかも急性だ。

このところ行く度に注射針を前脚に刺されたり背中を切除されたりそれで大量出血したりと、随分と痛い検査や治療をされてばかりだった我が子は、診察室に入るなり僕の腕の中で珍しくブルブルと震えていた。こんなに怯える我が子『B』を見たのは初めてだ。だが絶え間なく声掛けをしてあやし気を鎮めさせたせいか、それとも今日は何もされないと分かったからか、連れてきた当初は怯えかつ落ち着きがなかった我が子は、今では僕の腕の中に頭を突っ込み、すっかり安心したかのように目を瞑りジッとしていた。


だがその腕に抱かれた我が子の身体を触ると、気のせいだとは思うが数日前よりリンパ腫は背中に無数に転移し存在しているように思えた。毛足が長いからパッと見た目は分からないが、首根っこのリンパ腫は今や空豆大となり、それは僕の眼と触った感覚からすれば到底容認できるものではなかった。

そうした検査結果の説明の後、医師に今後の方針について実に軽い調子で二者択一を迫られた。

悪性リンパ腫だと宣告されただけで少しばかり動揺しているのに、飼い主としての今後の対応をいきなり問われたのだ。それに因れば、温存療法という形でこのまま対処療法としての延命治療以外は何もしないか、積極的に外科治療と抗がん剤治療を施術するかという二者択一を『飼い主としてせよ』、という話のようだ。

気休めにしか聞こえなかったが、治療をしなくてもすぐに死ぬ事はなく発症から二年以上生きた例も結構あるという。だがその場合、多くは身体は腫瘍だらけになり、見た目にもそれはハッキリと分かるほどだという。またその末期は、痛みで『B』自身相当苦しむことになるだろうという説明であった。

誤診とまでは言えないだろうが、当初から診断が悉く外れてばかりのこの医師の説明だったので、僕はその説明を素直に受け取れなかった。だから今の説明が、まるで『我が子の醜い姿を見たくなかったら積極的な外科手術や抗がん剤治療をせよ!』と言わんばかりに、僕には聞こえてしまったのだった。

正直に言えばその時点で『B』の今後のことを深く考えていた訳ではない。だが僕には懸念があった。

「今すぐここで返事をしなければなりませんか?」

「このまま放置していても良いことは何一つありません。手術するしないという結論なら一ヶ月後までならお待ちします」

僕は、ならば一ヶ月待ってくれと、医師に伝えた。次回の診察日が決まった。

そう言ったのは様々な理由があったからだが、一番の理由としては経済的な事情である。一旦手術となれば、それこそとんでもない費用が掛かることが分かっていた。実際、我が子『B』の医療費は、過去に骨折や尿道結石等の計三回の手術で一回につきウン十万円、総計で百万円以上の支出があった。例えば今回の検体病理検査票の発行だけで5万円の請求があり、その他診察代や諸々の料金がそれに加算される。しかもこの病院の場合、クレジットカードでの支払いは一切利かない。だからこの病院に行く時には、いつも十万円くらいは現金で持ち合わせていなければならない。仕事場での昼飯は、四百円もしない仕出し弁当を食べて節約している僕がだ。

十年前からフリーランスになり収入は不安定だった。今や蓄えも潤沢とは言い難い。動物医療保険にも入ってはいなかったから、結局は相当な支出を余儀なくされるのが目に見えていた。

だが結局僕は、積極的に癌治療する道を選んだ。

まずは外科治療を七月初旬に実施した。その時点で一番大きな腫瘍は、あのカットして大量に出血した箇所だった。首の付け根のその病巣は、直径がゴルフボールには少し足りない程度の大きさにまで増殖していた。今では僕だけでなく誰が見てもその異変は明らかだった。何だかノートルダムのせむし男かバッファロー(アメリカバイソンの異称)のように、背中が瘤状に盛り上がっていた。

その一番大きく目立つリンパ腫の摘出手術をした。切開長は7cm、縫合には10数針縫ったと記憶している。これは小型犬にとっては大手術である。術後はエリザベスカラーを取り付けられた。その後一週間は、立てばヨロヨロと歩き、歩を進める度に痛いのか「キャン!」と短い叫び声を上げていた。その姿は見ていてとても痛々しかった。

その後も術後の転移を防ぐため、一ヶ月集中的に積極的な抗がん剤治療をした。

積極的な治療をすると決断して以降、僕には一切迷いはなかった。

そうして施術と、その後一ヶ月間の治療を終え、他の患部の病変も一旦は縮小した。病状は一見して快方に向かったかに思えた。だが安心したのもつかの間、術後二ヶ月経った九月には更にリンパ腫が転移していた。僕はある日、背中だけでなく鼠径部にまで癌が転移しているのを発見した。

不安は再び顕在化した。切開手術の際は、これ以上できないというほど広範囲に癌細胞とその周りの病変していない細胞まで切除していた筈だ。念には念を入れて、健康な組織も含めて患部の周囲まで多めに切除したとの説明を受けていた。そこまでして慎重に進めた手術だった筈だが、結局のところの悪性リンパ腫という癌細胞を、完全に身体から取り除くことは出来なかったのだ。

リンパ節は身体の至る所にありリンパ管で繋がっている。そのリンパ管を通ってリンパ球は全身を循環している。同じようにリンパ節に発生したリンパ腫という癌細胞も、このリンパ球と同じく全身を駆け巡るだろう。更に言うならば、リンパ種という癌細胞はリンパ球同様容易に血管内に侵入できると思われる。殊にその病巣の膜を切除などによって破られれば尚更であろう。素人でも考える頭があれば容易に想像できることだ。

それからすると切除手術時には既に他の部位にまでリンパ腫は転移していたと考えられる。それだけでなく、手術時に切除されたリンパ腫から零れ落ちた微細な癌細胞が、リンパ管や血管を介して全身を駆け巡り更に広範囲にリンパ腫をばら撒いた可能性は否定できない。

そうした転移の危険性があったからこそ、術後に抗がん剤治療をしてそれを防ごうと試みたのではないか。だが結局はそれは徒労に終わった。この種の抗がん剤は、この悪性リンパ腫にはあまり効果がなかったのだ。

しかし僕の苦悩と我が子の苦難と苦痛はそれだけでは終わらなかった。

弱り目に祟り目、その日診察を受けた我が子と僕の前に、今後待ち受けているであろう残酷な現実が突きつけられた。更に言えば、その掛かり付けの医師から告げられたもう一つの現実で、僕の頭は一瞬真っ白になった。

またもや二者択一を迫られたのだ。

しかも今回ばかりは、前回同様に医師から軽い調子で言われた訳ではない。

迫られた内容は『B』の命と運命に直結する切実な話だったのだ。

それはこのまま延命治療を続けるか、それとも敢えて治療はせず死を待つかの究極の選択だ。それは、もはや病気は治癒しないし、死ぬ事を前提としていた。その意味するところを知った僕は、この現実を俄には受け入れられなかった。

ボウッとする僕の耳に医師の言葉が空しく響く。「積極的な抗がん治療はしなくても、延命治療をすれば一年程度は生き延びる可能性がありますよ」・・・僕はその意味すら理解できず、すぐには返事ができない。何もかも気休めにしか聞こえなかった。

その様子を見た医師はさらに説明を加えた。今度は前回とは真逆の説明だった。

それに因れば、抗がん剤治療をするにしても今まであまり効果を発揮していない抗がん剤をこれからも投与し続けるしかないという。しかもその効果はあまり期待できないことに加え、なおかつ治療による副作用まで考慮に入れると、『Bちゃん』の苦痛を長引かせるだけか、却って余命を縮めかねない・・・と言われた。

それは『もう打つ手がない』と宣言したも同然だ。僕はその現実を受け止められない。

その話の最後に、副作用の中で最も危惧されるのは『誤嚥性肺炎』だと初めて聞かされた。過去一ヶ月の抗がん剤治療で使った注射や飲み薬で、嘔吐(えず)いたことは一度もなかったのでサラッと聞き流した。それよりも余命宣告された事で頭が一杯だったのだ。

 

だが僕はそれでも前者を選ばざるを得なかった。

 

我が子は人間の年齢に換算すればもう老境にとうに入っている。抗がん剤治療をしてもしなくても、余命は一年と違いはないだろうと宣告されたにも拘わらず、そう決断したのだ。

それは僕の我が子に対する罪の意識に基づいたものだ。もう遅いかも知れないが少しでも我が子と一緒にいる時間を取りたい、我が子の幼い頃のあの幸せだった時間を共に取り戻したいという、甚だ自分勝手な理由によるものだった。

そんな愚かな想いに取り憑かれていた僕だが、我が子の方は自分の死期を悟っていたに違いない。

だがそうして選択した抗癌剤治療の継続が、却って我が子の死期を早めてしまった。

抗がん剤の副作用の一つである強い嘔吐が原因で、医師が指摘し危惧していた誤嚥性肺炎に罹り、しかもその時点ではレントゲン検査でも症状を確認することが出来ず、一週間後の再検査で結局のところ片肺が壊死していた事が確認されたのだった。

体力を激しく消耗するほど、長時間に及んで咳き込んだその日以来、彼はご飯を殆ど口にしなくなった。水もあまり飲まない。あんなに活動的だった我が子だが、今では日がな一日体を横たえて浅い息をしている。しかも時折老人のような苦しげで弱々しい咳をする。

体は見る見るうちに痩せ細っていった。

そらから十日ほど経った三日前に、我が子は呼吸困難に陥った。

妻から連絡を受け、仕事場から急遽帰宅した僕は、そこに息絶え絶えの我が子の姿を見た。

僕は身近な人が同じ症状になった時にその一部始終を見ていた。その時の経験からすれば、死滅した片肺から病原菌が血液とリンパ液を通して全身に回り、敗血症を発症し循環器障害と敗血症性ショックを引き起こしている恐れは大だと、素人目にも判断せざるを得なかった。

僕は寝ずの看病をした。(とは言っても声掛けをし続けて、ただ見守るしか出来はしなかった)

その夜の我が息子の呼吸はその小さな体からは想像すらできないまるで鞴のような荒々しさだった。

 

 

 

その日から三日後、覚悟のその時が遣って来た。

 

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『想い出はいつも哀しみの色』

 

 

 

我が子が息絶え絶えになった日の、その三日前まで一旦時間軸を遡ろう。

 

妻から『Bちゃん』が激しく咳き込んでいるという急報を受けた。それは妻の目から見て相当危険な状態だという。「もしかして死んじゃうかも!」、そう聞かされては今すぐ帰らなければならないだろう。何しろ妻は動物が苦手なので、我が子でさえ抱っこできない。つまり病院に連れて行くことさえ出来ないのだ。だから上長の了解を得て仕事を早退した。

だが家に戻った時には、既に掛かり付けの病院は診療時間外で留守電しか繋がらない。緊急性がある場合には、最寄りの動物医療センターに連絡してくださいというテープが流れるだけだ。センターの電話番号は既知だったのですぐに電話を切った。

仕方がないので翌朝一番で診察して貰おうと考えた。妻に話を聞くと、僕が戻った時点では咳の山場は越えていたようだ。だが一目見ただけで我が子の衰弱が激しいのが分かった。

普段ならまるでスフィンクスかと見紛うばかりに、背筋をシャンと伸ばして『正座』をしているのに、まるで車に轢かれた蛙のように、腹這いの状態から四肢は投げ出され伸びきったままだ。前肢に触ればだらんとしてまったく力がない。顎を床に付けたまま涙目で弱々しく僕を見上げたその視線は、痛みと苦しみとその寄る辺無さを切実に訴えていた。相当苦しいのか鼻には小皺を立て瞼を閉じたり薄目を開けたりを繰り返し、弱々しげで何とも言えないもの悲しい声で啼くのだ。そんな姿を見るのは初めてだった。見ているだけで辛くなる。

目には信じられないほど多くの目脂が溜まっている。目頭は特にひどい状態だった。それは目脂というより眼に分厚い膜が張っているという感じだ。そのせいで視界も狭められているに違いない。僕は自分のハンカチをぬるま湯に浸してから、その目脂を取り除いてあげた。僕を見詰める我が子が弱々しく笑ったかに見えた。僕の顔がハッキリと見えてやっと安心したのだと思う。

しかしその夜から我が子の容態は急変した。苦しいのだろう、息は絶え絶えでしかも途轍もなく荒い。今この瞬間にも息が止まってしまうのではないこと思うほどの、発作的な痙攣と苦痛の唸り声を上げている我が子。薄く目脂が再び目頭に浮いていた。

僕は親指と人差し指で目脂の膜をそっと拭って取ってあげた。一瞬だけ我が息子が目を開ける。だが僕に出来るのはそんなことと、傍にいて励ますことぐらいしかない。ずっと見守っていたが、見ているだけで他には何一つ出来ないのだ。

もどかしさだけが募る。このまま我が子が死んでしまったらどうしよう。

更に荒い吐息は続く。やがてそれは鞴のように大きな吐息となった。これはマズイかもしれない。

・・・我慢できなくなり、緊急動物医療センターに連絡を入れた。深夜二時半を少し廻っていた。

だが、聞けば四〜五時間待ちで現時点で手術の確約は出来ないという。それでも粘ると、舌にチアノーゼ症状が出ていれば、緊急性があると認められるので優先的に診てもよいと言われた。舌が紫色になっていれば、それがチアノーゼの典型的症状だという。すぐに確認した。舌はまだ辛うじてピンク色をしている。だが普段見慣れていた健康的な色とは程遠いように思われた。電話で応対に出た獣医師も、僕の話を聞いた限りでは判断に迷うという。

当然ながら、それでもどうするか、その場で判断を迫られた。

正直、大いに迷い幾度も逡巡した。医療センターに行ってもすぐに延命処置あるいは手術が出来ない可能性が高いのであれば、現時点で手術や医療処置をしてくれる可能性のある医療機関かそうでないかを問う前に、時間的経過そのものを考慮に入れざるを得ないことが、決断に迷った主な原因であった。

言い方が分かりにくいから簡単に説明するが、要は朝を待って(今までの経過が良く分かっている)掛かりつけ病院に行くか、今すぐ(不確定要素の不安は拭いきれないが、高度な医療機器と高度な医療行為を受けられるであろう)動物医療センターを選択するかの二者択一である。これは時間の経過と共に変化する生死の確率の問題でもあり、それらを勘案した上で決断しなければない。それはある意味バクチ、賭けのようなものだ。僕はギャンブルは嫌いだ。

今は午前二時過ぎだが、我が子が果たして次の朝を迎えられるのかを、僕は今この瞬間に判断しそして決断を下さなければならない。普段の言動の拙速とも思える思いっきりの良さというか、迅速な判断と決断と即実行という一連の動きは、その時点ではすっかり影を潜めていた。

どうしてこんな時に限って僕の『直観』は発動しないのだろう。そんなことが頭の隅に浮かぶ。

それでも僕は決断しなければならない。電話でそう長くは返事を待ってはくれないだろうから。

そうは言っても、たぶんこの判断に要した時間は一分とは掛かっていなかった筈だ。

「どうなるかは分かりませんが、今の状態で移動してもこの子の体が保つようには思えません。ですから絶対安静にして朝までこの子の様子を見ることにします。その間に容態が急変したら医療センターを頼りたいとは思いますが、もし朝まで命を永らえてくれるなら、掛かり付けの病院に連れて行きたいと思います」

そう伝えて通話を切った。そうして我が子の生きたいという気力に、一縷の望みを託したのだった。

それから僕はテキパキと動いた。自分のベッドの隣に椅子を置いて、その上に直径60cmばかりの小さな円形のベッドを載せて固定した。そうして我が子をそこにそっと寝かせつけた。寝かせつけたとはいっても、鞴のような荒い息をしており、息も絶え絶えの容態がずっと続いている。相当苦しいのか眉間に皺を寄せ、目を閉じて開けようともしない。だからけして寝ている訳ではなかった。それを見て、今この時も我が子は病と戦っているのだと知った。それをヒシヒシと感じた僕は、お互いの顔と顔が40センチもない至近距離で添い寝をすることにした。

人間の身体は不条理に出来ている。添い寝とは言ったが、疲れも度が過ぎると身体が寝ることを拒絶するのだ。その所為で外が明るくなるまで僕は一睡もしなかったし出来なかった。

その間も我が子の息は途絶えてしまうかのように弱まったり、逆に鞴のように大きな音を立てたりと、あまりにも不規則でまったく安定していなかった。

僕は僕で不安に駆られて心が定まらない。寝不足が続いて偏頭痛がひどい。目眩まで感じていた。僕も共倒れするかも知れない。・・・そんな思いが頭を過る。

そうして改めて目の前の我が子の様子を眺めれば、その小さな命は風前の灯火かと思われた。だが我が子は健気だった。傍で声掛けをして励ます僕に、その目を半ば閉じながらも必死にそれ(声掛け)に応えようと僕の姿を追い続けていた。欠伸のように時々大きく口を開けるのは、たぶん片肺で酸素が不足しているせいだ。苦しい息の中、その激痛故か奇妙な叫び声と共に目に一杯の涙を浮かべていた。

そうして我が子と僕は、一睡することもなく共に一晩を乗り切った。

翌朝一番で掛かり付けの医院に行った。事前に電話をして『いの一番』での診察だ。家と病院は七分余りの距離だ。

 

「今からBちゃんを預かります。手術は出来ないので、100%酸素の特別のケージに入れて様子を見ます。たぶん今夜が山でしょう。それで快方に向かったら、尚かつ体力が戻ったらBちゃんをお返しします」

 

僕の抜群の記憶力は今でも健在だ。だから若い頃に読んだ、立花隆の『宇宙からの帰還』という本の内容の一節がすぐに脳裏に浮かんだ。その本には、地球上の大気中の酸素分圧は空気の約21%、窒素が約78%という記述があった筈だ。それだけではなく、100%の酸素という人工的環境が生物の身体にどれ程の影響を及ぼし、どのくらいの生理・医学的効果があるかを、記憶をたぐり寄せて明確に理解していた。

因みにこの著作が書かれた当時(刊行は1985年)と現在の宇宙開発の情況は異なっているため、記述時の諸条件が現在の情況と合致している訳ではない。例えば執筆当時と現状に近い1997年9月11日に公表された、『宇宙開発事業団宇宙医学研究開発室』の嶋田和人氏のレポートに因れば、このレポート公表当時の国際宇宙ステーション・ミールの船内空間環境は、気圧は0.34気圧、酸素70%、窒素30%であった事が分かる。なお船外活動を行う宇宙服の内圧は0.29気圧で100%の酸素を使用するとの記載があった。そしてこの船外活動時の宇宙服の主タンクの気圧は59気圧であるとのこと。

ところで立花氏の著作を見るまでもなく、現在でも宇宙飛行士が飛行船に乗って、すぐに宇宙に飛び立てないないのはご存じの方もおられるのではないか。まずは約3時間かけて宇宙服内を減圧し、100%の酸素を供給して体内からすべての窒素を体外に排出させなければならないからだ。そうしないと、宇宙船内や宇宙服内といった極端な低気圧環境状態で、人は生存することが出来ないのだ。

だから発射以前より宇宙服を着て徐々に宇宙服内の気圧を下げていくと同時に酸素分圧を上げ、100%になるまで体が順応するのを待たなければならない。だからサターン5型ロケットやソユーズ宇宙船に乗り込むクルーは、発射の3時間前から減圧するのと同時に、100%の酸素を体内に取り込む必要(これを『与圧』という)があるのだ。地上ではあり得ないほどの低気圧という環境下では100%の酸素に頼るしかない。因みに当時の発射時の宇宙服の内圧は0.25気圧に設定してあり、供給される空気は100%酸素だ。

これは余談だ。

こうした予備知識がなければ、宇宙空間で人類が生きられないのは、酸素がなくて窒息するからだと誰しもが思うだろう。だがそれは余りにも短絡的だ。現実の話としてたとえ酸素を供給出来たとしても、宇宙服なしに人間が宇宙空間に放り出されれば、宇宙線という高放射線を浴びて死んでしまうだろうし、(そんなことは実際あり得ないが)たとえ宇宙線を浴びない幸運に恵まれたとしても、宇宙空間では人間は数秒間しか生きられない。だがそれは酸素を体内に取り込めない(呼吸が出来ない)からではない。宇宙空間が真空且つ絶対零度という、生命の存在を受け付けない『死の空間』だからだ。

絶対零度かつ真空という宇宙環境の中では、人間の肺胞の中は膨張した水蒸気と二酸化炭素だけになってしまう。しかも、というよりこれが主な死因となるのだが、絶対零度の環境下では、人間の身体は体温だけで即座に全身のすべての細胞が沸点に達し、体内のありとあらゆるものが沸騰して蒸発し、それと同時に体は膨張し始め体積は飛躍的に増大する。そのことによって身体そのものがあたかも風船のように膨らんで遂には爆発する。こうした過酷な物理的条件により、地球上の生命体は(宇宙空間に直に晒されては)生存できない。

このように、宇宙空間での死因が窒息死ではなく、身体のありとあらゆる細胞が沸点に達して蒸発し、それにより体積が急激に膨張しての爆発死という事実を想像してみれば、その恐ろしさが分かろうというものだ。

話を元に戻そう。

地球上の生物は1気圧を前提に体の各組織が作られている。だから赤血球内のヘモグロビンも、約21%の酸素分圧を前提に酸素を取り込んでいる。ゆえに宇宙空間では宇宙服あるいは国際宇宙ステーション内を与圧して、肺胞内を(酸素が取り込める)正常な状態に保つために、100%の酸素を供給する必要があるのだ。因みに呼吸し生命を維持するという点では、基本的に人体は窒素を必要としない。むしろ気圧の急速な変化が予想される場合、窒素は百害あって一利無しだ。なぜなら窒素は(何れ排出されるにしても)体内に容易に溶け込むし、例えば深海から水面に上昇するケースなど、高気圧から低気圧一気に気圧が変化した場合、窒素は一気に膨張してその体積を増やしてしまう恐れがあるからだ。そうなると酸素を取り込めず人間は窒息せざるを得ない。

これと同じ原理を発展させ応用したのが地球上の酸素療法だろうと思われる。病気などで片肺になったというような理由で、十分な酸素を体内に取り込まない状態になった場合、気圧をコントロールして赤血球内の『酸素の運び屋さんであるヘモグロビン』という組織に、より多くの酸素を取り込ませて(積み込ませて)体の隅々まで十分な酸素を送り届ける必要がある。そのための100%の酸素なのだ。ただし酸素療法下での気圧コントロールは減圧ではなく加圧だろう。

そうすることによって、ヘモグロビンにより多くの酸素を取り込ませることができるからだ。だから体の隅々まで十分な酸素を運ぶ必要がある場合には、加圧によって酸素分圧を上げ、酸素の乗り物であるヘモグロビンにより多くの酸素を取り込ませ、全身の細胞にくまなく且つ十分に行き渡らせる必要がある。またそうしなければ酸素治療をする意味はない。そういう意味での加圧だ。

だからこれから酸素療法をするという、我が子が入るケージ内の気圧コントロールが一番重要であることを僕はよく理解していた。

今我が子が最も必要としているのは、命を永らえるための大量且つ絶対的な量の酸素なのだ。

だから医師がこうした処置を取る理由をすぐに察した。しかし理解できない人がいると思うのでもう一度説明しよう。

こうした治療法を行うのは、片肺がないことで不足している酸素量を、加圧室内の気圧を上げて尚かつ100%の酸素を供給することによって、(体内の余分な窒素を吐き出させて酸素分圧を上げる事によって)ヘモグロビンにより、多くの酸素を取り込ませる状態にすることで体内で必要な酸素量を人為的に供給するためだ。

何しろ通常の1気圧では酸素分圧により21%分しかヘモグロビンは酸素を取り込めない。だから100%の酸素を供給し、気圧を上げて窒素量を減らすと共に酸素分圧の比率を高め、より多くの酸素をヘモグロビンに取り込ませて、血管を通して栄養素と必要な量の酸素を、体中の細胞にくまなく運び供給する必要があるのだ。

酸素室に入れる理由を医師に確信したところ、果たしてそうであった。

以上長々と100%の酸素を摂取する意味を説明した訳だが、それは酸素供給室が我が子に与える影響を知って貰うがためだ。それほど『酸素供給システム』は我が子にとって必要だった。

だが僕には『酸素供給システム』そのものよりも、その運用に懸念があった。医師の最後の言葉に引っ掛かっていたからだ。医師の言葉の意味を深読みするならば、『Bちゃんをいつまでも100%の酸素が供給された気密室に入れておく訳にはいかないんですよ』と言っているように聞こえてしまうのだ。

何事にも限度と限界はあるのだ。僕は恐れていた。マーフィーの法則ではないが希望は打ち砕かれるのが常だ。・・・だから僕の抱く懸念をストレートに口にした。

「酸素室に入れられて元気を取り戻したとしても、家に帰ってからそれほど長くは生きられないんじゃないですか? 片肺はもう駄目だし、僕の経験からすれば敗血症を併発したのは間違いないように思うんです。それにうちには酸素ボンベも100%の酸素を供給できる気密室もありません。だとしたら、先生が(元気を取り戻したら)うちの子を家に帰すと仰る本当の意味を、包み隠さず教えて頂けませんか!」

僕のこうしたストレートな物言いを聞いてか、医師は正直に答えざるを得なかったようだ。

「あくまでも今夜がヤマですが、たとえそれを乗り越えられたとしても・・・・・たぶん余命は三日と思って下さい。酸素を与えて元気を取り戻しても、それは一見してそう見えるだけです。舌がチアノーゼの典型的症状を示していることからすれば、仰れたとおり『Bちゃん』は敗血症を併発しているでしょう。心拍音が殆ど聞こえないし聞こえても不規則ですから恐らくは心房細動も起こしています。敗血症による心臓へのダメージは相当あると思います」

だが医師の話はそれで終わらなかった。とうとう本当の話を切り出した。

「真に言い難いのですが、今言いましたように、たとえ今夜の山場を乗り越えて一時的に元気を取り戻せたとしても、酸素室に長期間入れておくことは不可能です。(今の『体調』では)体が保ちませんから。それに・・・たとえ一時的に良くなったとしても恢復は不可能です。ですからたとえ明日まで命を永らえたとしてもそう長くは生きられないでしょう。ですから明日の朝の時点で元気になっていたとしても、『最期の時を一緒に過ごして貰う』という意味で、『Bちゃん』をお返しすることになります」

こうして医師は残酷な余命宣告を下した。

もちろん医師が悪い訳ではない。(余りにも頼りないと内心では思っていたが、それでも尚、)事実を包み隠さず話すことこそ獣医師としての彼の責務だと理解している。

帰りは当然一人でトボトボと歩いて帰路の坂道を降りていった。その道すがら僕は涙が止まらなかった。人とすれ違っても涙は隠しもしなかったし、ちっとも恥ずかしいと思わなかった。

坂道の途中で嗚咽が漏れた。堪えきれずに立ち止まる。『下ばかり見て歩いちゃいけない』と心の声が叫んでいた。だから涙で滲んだその目で、雲一つない空を見上げた。

 

ああ、どうしてこんな日も、空はこんなにも青く晴れ渡っているのだろう。

 

翌朝医師から電話が入った。奇跡的な恢復力だという。

昨日の今日だから俄には信じられない。この医師の言うことだ、糠喜びはすまいと心を引き締めた。医師は昨日の遣り取りなどすっかり忘れたかのように、「本当に驚きました。昨日の朝に診たときはあんなにぐったりしていたのに、昨日の午後から尻尾を振ってご飯もモリモリ食べています。本当に驚くほどの快復力です。とにかく今からこちらに来て頂けますか?」その声は昨日とは打って変わって『喜色満面』の笑顔を彷彿とさせるものであった。

僕はすぐにそちら向かうと伝えた。しかし少しも安心などしなかったし胸の閊えは一向になくならない。医師がわざわざ僕を呼ぶのは、改めて最終宣告を告げるためではないかと不安に駆られた。

だが豈図らんや獣医師はニコニコ顔で僕を迎えた。

「様子を丸一日見ていましたが、もうおうちに帰っても大丈夫だと思います。これから酸素室の空気を徐々に大気と同じ状態に戻す調整に入りますから(酸素分圧を大気中と同じにするために『減圧』するという意味)、午後四時過ぎにあらためて『Bちゃん』を迎えに来て下さい」

・・・そう伝えられた。

そうして我が子はこの日の夕方に我が家に帰って来た。

昨日動物病院に我が子を預けて、一旦帰宅した後、その足で車に乗り換えてホームセンターに行って買った、真新しい『抱っこバッグ』があった。それに我が子を入れて、同じく真新しいフカフカのバスタオルに包んで家まで連れて帰って来た。病院と当時の我が家は、歩きだとドア・ツー・ドアで七分余りだ。

朝に見た時は酸素室の中を所狭しと駆け回るほど元気だった我が子だった。だが僕が迎えにいった午後四時過ぎには、もうその面影すらも見られなかった。人目見ただけで元気が失われているのが僕には分かってしまった。

前日に、「余命は三日」と宣告した医師の言葉が耳から離れない。

 

『B』(我が息子の名)を連れて帰って来て暫くその様子を見ていたが、その時の僕はとうに体力の限界を越えていた。そんな状態でソファでうつらうつらしている僕を見かね、妻が「部屋に戻ってベッドで寝たら! 私が『Bちゃん』の様子を見ているから安心して眠って。何かあったら起こすから」と言ってくれた。それで僕は妻だけでなく我が子にも断って、その時以来ずっと寝続けていた。

我が子が二週間前に誤嚥性肺炎を引き起こして以来、僕の睡眠時間はないに等しかった。仕事場と病院と自宅を行ったり来たりを毎日のように繰り返し、殆ど寝る暇もなかったのだ。たとえ横になったとしても色々考えて神経が昂ぶってしまい、とても眠りに就くことさえ出来なかっただろうと思う。

そんな極限状態だったから、一旦眠ってからというもの、途中前日の夜に一度起きはしたがまったく食欲はなく、睡魔に襲われ一時間余りですぐにまた寝てしまった。そうして再び起きたのは翌日の午後二時過ぎだった。

我が子に近づくと上体を起こし静かに僕を見上げている。背中を撫でてあげた。七月初旬に施した手術の痕が指に引っ掛かる。手術痕は歪に縫合されて妙に皺が寄っていたからだ。体毛が伸びてきたとは言っても、そこに皺が寄っているのは誰が見ても明らかだ。

「『B』、あとで抱っこしてあげるからな」

そう言った僕を、我が子は眠そうな目で見上げた。

妻が軽く食事を作ってくれた。だがその食事の途中で僕は再び眠ってしまって箸を取り落とした。仕方なく居間に移り一人用のソファに寝そべりそこで軽く目を閉じた。

抱っこの約束はもう忘れていた。

軽く目を閉じただけの積もりだったが、いつの間にか四時間余りが経過していた。

 

ガタガタ、ガシャーン!!!

 

半分寝ていたにも関わらず、僕の神経はその異様な物音に敏感に反応した。この二週間というもの神経は殊更に鋭敏になっていた。背後で鳴ったその音で、想像出来うる範囲でも最悪の事態が、今ここで起こっていることを悟った。

気づけば、妻が掛けてくれたのだろう、僕は肩までウールのブランケットに包まれていた。

それを撥ね除け、それまで座っていた一人用のソファから立ち上がり、そして背後を振り返った。

そこには横たわって、前脚と後ろ脚をバタつかせ身体を痙攣させている小さな命があった。

ガタン、ガタン。簀子(すのこ)の上に、滑り止めの金網を敷き詰めたケージの床がまた鳴った。

思わず僕は叫ぶ!

「『B』、大丈夫か!」

その声に我が子が反応し、体は横たえたまま、長い首だけをむくりと起こしてこちらを振り返る。

一瞬の静寂が訪れ時間も止まったかに思えた。我が子のその目は、ひたすら哀しい色を湛えていた。それを見た瞬間に、僕は思わずケージの傍に駆け寄った。

そのあいだ我が子の目は僕を捉えて放さない。身体はだらんと横たえたまま、ただ首だけ起こしてじっとこちらを見ている。たぶんもう立ち上がる力はその小さな体には残されていないのだ。

我が子の顔と僕の顔は60cmと離れていない。

一瞬その我が子の表情が綻んだかに見えた。微かに笑ったかに見えた。

だが我が子は僕から視線を僅かに外し、突如決然とした表情で天井を見上げた。それはとても力強く確信的だったが、それと同時に、最後の力を振り絞っているかの様に思えた。

我が子の目が細められ、空かさず瞼が閉じられた。・・・一瞬の沈黙。

次の瞬間、小さなその身体からはとても想像できないほど、大きく力強い啼き声が部屋中に鳴り響いた。それは遠くにいるであろう同胞を呼ぶかのようなもの悲しい遠吠えであり叫び声だった。哀調を帯びたその遠吠えは、長く尾を引いて部屋中に響き渡った。それは僕の心の内に余韻を残して染みわたった。

 

だが、長く尾を引くその声が途絶えた時、我が子の力は尽き果てた。

 

ガッシャーン!!!

 

上体が崩れ落ちて、全身が力を失い金網が敷かれた木製簀子の床に頭部が打ち付けられる。苦しみから逃れるために足掻いたのだろう。ベッドはいつの間にか遠くに飛んでいた。

ケージの枠から身を屈め覗き込む。背後に人の気配がした。夕食の支度をしていた妻が異変に気づいて駆けつけたのだ。僕は前を見たまま声がけをした。

「おい、『B』、しっかりしろ!、オマエの『〇ちゃん』もここにいるぞ!!!」・・・

しかし反応はない。咄嗟に右手を伸ばし、我が子の胸に手を遣り、人差し指と中指で心臓マッサージを始めた。するとほんの数秒だけ、前肢と後ろ肢が虚空を掻き毟るよう動いた。

・・・だがそれまでだった。

二分ほどマッサージを続けたが、その後まったく反応はなかった。

手の動きを止めた。

とうとう僕の指先に、我が子から命の感触は伝わっては来なかった。病院から連れて戻って来た時にはピンク色をしていた舌は、今では床にだらんと垂れ下がり、チアノーゼでとても気味の悪い紫色をしていた。目はカッと見開いたままだがそこに命の光は宿っていない。

右手で再びその身体に触れ軽く揺らした。だがもう何の反応も返っては来なかった・・・。

僕はその間ずっと無言のままだった。言葉を失っていたのだ。今の気持ちを、想いを、どう表したら良いのか分からない。背後でずっとその様子を覗いていた妻が心配そうに僕に声掛けする。それに応えようとするが適切な言葉が見つからない。次に出た言葉は余りにも月並みだ。声に抑揚はなく、まるで感情が抜け落ちたかのようだ。

「『B』が死んだ。死んじまったよ」

背後を振り返りもせず、僕は妻に向かって呻き呟くように、その事実を歯を食いしばって伝えた。僕の言葉に応えるかのように横に並んだ妻がワッと泣く。

「『Bちゃん』、起きて、起き上がって! 今『Bちゃん』においしいゴハンを作っていたのよ」

横たわる我が子の小さな身体。

慟哭する妻。

その時、、、僕の視界が俄にぼやけた。

・・・僕も声も立てずに泣いていた。

さっき我が子が僕と妻に向かって、力の限りを振り絞って最期の挨拶をしたと分かったからだ。

これが僕一人を信じ、頼り、そして愛してくれた我が息子『B』の最期だった。

僕はその亡骸を抱き上げた。まだその身体は生きている時と同じ体温だ。だが刻一刻とその熱は失われていくのだろう。横抱きにしたその体を、ヒシと抱きしめた。

手に触れたものがあった。見れば二週間ぶりに食べた命の残滓が下から溢れだしていた。それはまるで魂が体から抜けていくかの様であった。空かさず風呂場に移動して下半身を温水できれいに洗ってあげた。それも泣きながら。それから備え付けのタオルでしっかり拭いてあげた。

実のところその時僕の心の内を大きく占めていたのは悲しみだけではなかった。止め処ない悔恨の情がそこにあったのだ。謂わばこれは自分に対する瞋りと悔しさの涙でもあった。

もっと優しくしてあげれば良かった。

もっと一緒の時を過ごしてあげれば良かった。

もっと遊んであげれば良かった。

もっと連れて行きたいところが沢山たくさんあったのに。

・・・あの時延命治療を選択しなければ良かった。

そうしなければ、もっと一緒の時間を過ごしてあげられたのに。

もっともっともっと・・・。

 

悔恨は尽きなかった。

 

人間でもこれほど立派で折り目正しい死に方はしない。「死にたくない、死にたくない」と、無様で見苦しい死に様だった人だって僕は知っている。だが我が息子は犬畜生の分際で人並み以上の立派な最期を向かえたのだった。それまでは息絶え絶えでジッとしていたのに、残る力を振り絞って飼い主にきちんと挨拶して死んでいった。体は力なく横たえていたのに、最後の力を振り絞って上体を起こし、そして僕の眼をしっかりと見詰め、意を決したように体に似合わぬ大声で吠えた最後の一啼き。僕は我が子の今生の別れの挨拶となった、もの悲しくも力強かったあの遠吠えを生涯忘れない。

我が子は発症から僅か半年でその命が燃え尽きた。

そしてその最期も強く僕の印象に残るものだった。

享年は一三年十一ヶ月と六日、あと二十四日経てば十四歳の誕生日を向かえるはずだった。

人間の年齢に換算すれば八十過ぎの大往生だ。だがその死は余りにも痛ましく悲しい。

僕は生まれて初めて他者の死に涙した。それは止まることなくその夜幾時間も続いた。

 

哀しみに暮れるなか、もう夕暮れだったので、ペット葬をしてくれる業者とは連絡が取れないだろうと思った。しかも僕は愛玩動物の弔いをしてくれる業者を一切知らなかった。それよりも何よりも、僕はそれこそ現時点で何一つ手につかなかった。涙が止めどなく流れ嗚咽すら漏らしたほどだ。それも気の遠くなるほど、長い時間僕はそうしていたようだ。

父が亡くなって、僕が喪主となって、葬儀を執り行った時ですら僕は涙一つ流さなかった。その僕が今こうして人間ではない我が子のために泣いているのだ。事情を知らぬ誰かが見たとしたら、それは愚かにも見えただろうしで滑稽なことだったのかもしれない。だがその時の僕の心に在ったのは『悔恨』の二文字だけだった。

言わばこれは、ああしてあげれば良かった、こうしてあげれば良かったという懺悔の涙だった。

僕は我が子に対して本当に薄情な父親だった。


 

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『霊魂は霊感を持つ者と呼応し、お互いの精神は共鳴する』

 

 

 

僕の親しい者との死別は四度(正確には三度)あったことは既に話した通りだ。
そしてこれが直近七年前の、僕と最も親しいものとの別れだった。

我が子の遺骸を真新しいフカフカのベッドに寝かせて、その上にこれまた真新しいバスタオルの布団を掛けてあげた。そうしてカッと見開いたその目を僕は瞼に触れて閉じさせた。その眼(まなこ)はまだ乾いておらず、まるで生きているかのようだ。しかし体重は驚くほど軽かった。この二週間ですっかり痩せ細ってしまったので、たぶん体重は往時の半分近くまで落ちていたと思う。

不憫であった。僕はもう二時間余りも泣き通しだった。涙が止め処なく流れるというのは、この事を言うのかと思うほど、次から次へと涙は流れた。水分が抜けて、それこそ、体重が1kgは減ってしまったのではないかと思うくらい、泣きに泣いた。目は充血し真っ赤だった。

 

あらためて我が子と出逢った時の命の愛おしさを、抱き上げた時の命のその温かさを想い出した。

先ほども話したことだが、父親が亡くなった時でさえ僕は泣かなかった。その僕が今この小さな存在のために泣いている。それは傍目から見れば滑稽の極みで、尚かつ常識や良識に反したことなのかも知れない。だが僕はそれを恥じようとは思わない。

ただ悔いだけが残った。だから僕は今宵を我が子の隣で共に過ごすことにした。実際この二週間の過半をそうしてきたのだから、何一つ違和感もなければ恐れることもない。我が子の体からは体温が急速に失われて今や室温より僅かに温かい程度だった。

 

その夜僕はなかなか寝付けなかった。疲れすぎているのもあったが理由はそればかりではなかった。我が子との想い出が次々と脳裏に浮かび、目の前を想い出のシーンが次々と駆け抜けていく。なぜか心騒ぐものがあり目を閉じることが出来なかった。そうしてうつらうつらしながらも僕はいつの間にか眠ってしまったらしい。体力の限界を迎えていたのだ。

気づかなかったが、妻はそんな僕に掛け布団を被せてくれていた。

そして未だ未明の朝五時過ぎ、僕は何とも言えない胸騒ぎを覚えた。半ば意識は覚醒していた。目は閉じていたが五感は鋭敏だった。そうして胸の閊えとは異なる、胸部への物理的は重たさを感じていたのだ。誰かが胸の上に乗っている様な感覚とでもいえば良いのだろうか、そんな息苦しさと胸の圧迫感を覚えて目を開けた。

ギョッとした。・・・本当に至近距離で我が子の目と僕の目が合ったのだ。閉じてあげたはずなのに、半開きの目が室内の常夜灯の僅かな光を反射して光っていた。

それは明け方の五時過ぎのことだった。ガバッと上体を起こして、それから我が子の身体に触れてみた。既に体熱は奪われ室温と完全に同化していた。

我が子の命が尽きた昨晩は、脚が突っ張ったように投げ出されていて、そのままでは小さなベッドからはみ出てしまうような気がした。もしかしたらペット葬儀社の棺には収まらないかも知れない。無意識ではあったがそう思い、前肢も後ろ肢も自然に見えるようにわざわざ曲げて、丸いベッドに合わせて身体が丸くなるように、しかもその姿勢が穏やかに眠っているかのように整えて遺体を寝かせ付けていた。

その姿勢のまま死後硬直が始まっていた。その小さな身体が尻尾も含めて板の様に固まっていた。

その遺骸を持ち上げて、もう一度体裁を整えてから、タオルの上掛け布団で頭部だけを出して体全体を覆った。あの息苦しいまでの胸の重圧はいったい何だったのだろう。霊魂の存在を疑ったことのない僕は、あれは霊魂の重みだったに違いないと思った。

そう思うとこの部屋ではとても眠られない。我が子の傍を離れ僕は自室に戻って寝ることにした。

 

朝になった。睡眠はあれから二時間ばかり取った。熟睡とは程遠い。頭痛もひどかった。だがこれからしなければならないことは山ほどあった。仕事先への休みの連絡。掛かりつけの動物病院へ我が子が死んだことを報告する事。我が子の死に支度。ペット葬儀社探し。

そして我が子を荼毘に付すことだった。

ネットを検索してペット葬儀社を探した。ネットで知り合い面識もある友人に伝手があったが距離的に余りにも遠いので頼れない。だから独自に探すしかなかった。そうして一社だけに絞って九時前に連絡した。

聞けば大型犬の葬儀の予約が午後から一件入っているが、午前中なら火葬とその後に続く葬儀が出来るという。心の中では明日か明後日辺りを予定していたが、ペット葬儀社のスケジュールではその後は三日間予約で完全に埋まっているという。

心の準備もできないまま、すぐに荼毘に付すことにした。妻にもそのことを伝え、他に予定があれば今すぐキャンセルするよう促した。

料金の話になり、幾つかのプランを聞いて一番高い人間と然程変わらぬ火葬と葬儀がセットになったプランを選んだ。亡骸の周りを花で埋め尽くすプランだ。戒名こそないが位牌まで作るという。

聞けば料金は葬儀が終わってすぐの支払いだという。手元にそれだけの現金はなかった。だがクレジットカードでも大丈夫とのこと。それですぐに手配をお願いすると同時に、ペット斎場の場所が分からなかったので送迎をお願いした。用意するものも確認した。

車中で貰ったペット葬のパンフレットを見た。それを見る限り葬儀の式次第(セレモニーの手順)は人間のものとまったく同じだった。ないのは唯一読経だけだ。運転手の話では、代わりに弔いの管弦楽がスピーカーから流れるという話だった。

着いて一時間後に葬儀が始まった。小さな白木の棺の中に、鮮やかな花々に包まれた我が子の亡骸が安置されていた。手元にある白い菊や胡蝶蘭などの花びらを妻と共に我が子の顔附近に置き別れを告げた。斎場(火葬場)はすぐ脇の建物だった。

火葬が始まった。事務室兼葬儀場の窓から火葬場の煙突の煙が見える。はじめは黒かった煙は灰色になりやがて白くなった、そして最後は煙そのもの見えなくなって、空気の揺らぎとしてかその存在は感じられなくなった。

火葬の様子は小窓から確認可能だと言われたが、僕にそれを確認する意気地はなかった。

妻が代わりに見に行った。もはや煙さえ見えない煙突の先に、刻一刻と我が子の肉体は透明な煙の粒子となって今この時に大気中に放たれているというような、何とも言えない感慨を覚えた。半ば放心状態だったとも言える。疲れはまだ取れず軽く目を閉じる。脳裏に我が子のイメージが浮かぶ。

 

今ごろ我が子は虹の橋を渡っているのだろう。

だが煙突の上の遙か向こうには我が子の姿も虹の橋も確認できなかった。

昨日と変わらぬ雲一つない青空がやけに眩しい。

 

火葬が終わって遺骨を見た時に感じたのは、小型犬とはいえ案外がっしりとした骨格をしていたのだなという思いだった。人間でさえ長い闘病生活を送った者は、薬の影響からか骨が細いだけでなく脆い場合もあって、箸で摘まんで骨壺に収めようとしても崩れて上手くいかないことも二度ほど経験している僕だ。

しかし我が子の骨はしっかりしている。葬儀の担当者からは、遺骨の一欠片を金属製の小さなカプセルに入れて、それをキーホルダーにできるサービスがこのプランには含まれていると説明があった。好きなところを選んで構わないという。特別欲しかった訳ではないが、形見になるものが嘗て我が子の体の一部というのはけして悪い話ではない。それで僕は犬歯を、妻は前脚の親指の骨を選んだ。すぐにその用意をして骨を納めたカプセルを渡してくれた。そしてそれは今も大切に保管している。

ところでこの葬儀社の骨壺は二十数種類もあって、それぞれ大きさと形が異なっている。二番目に小さな骨壺は幅15cmくらいの六角形の骨壺だ。そして最も小さい骨壺は同じく六角形をした幅7センチくらいの高さもそれほどない骨壺だった。通常の骨壺ならば、いくら骨を砕いても大きい方の骨壺でなければ入らないという。だがその一番小さな骨壺に遺骨を納める為に骨に特殊な加工をすることが可能だという。マイクロ粉砕という骨を粉末状(パウダー状)にする加工を施せば,、我が子の遺骨はこの小さな骨壺に収まるのだそうだ。

暫く遺骨は家に置いておくつもりだったのでそれを願いした。

式が始まってから終えるまで二時間ですべては終わった。気づけば次のペット葬を待つ黒と白のミニバンを二台連ねて待機している人々が七八名はいた。その先にも車が到着してぞろぞろと人が降りてくる。どうやらこのペット葬儀社は盛況らしい。

午後の一時過ぎに我が子の遺骨と共に家に帰ってきた僕を襲ったのは、何とも言えないふわふわした虚脱感と再びの猛烈な睡魔だった。僕は昼食も摂らずに後片付けをして、その後自室に戻った。そしてここ二日間そうであったように、いつの間にかベッドとシーツと掛け布団と一体化し、まるで遠浅の干潟に棲息する軟体動物であるかのように、混濁した意識の泥の中で眠った。

そうして午後八時に妻に起こされるまで僕はずっと寝ていたらしい。

それから遅い夕食を摂るには摂ったが食欲は余りない。その後で、「もう何日も体を洗っていないのだから風呂に入ったら」と妻に諄々と言われたが、「入っているうちに意識が遠退いてそのまま湯船に沈みかねないので遠慮しておく」と、応えた。

そのまま自室に戻って再び眠りに就いた。

 

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僕は生前親しかった者との霊的親和性が極めて高い。

 

だが僕が親しいと認識する範囲は(死者や存命者を問わず)恐ろしく狭い。生存者に限っても、知人の数はさて置いて友人の数は片手で足りるほどだし、かと言ってその全員と親しいとまではとても言えなかった。

僕と意思を通じ合える人はそうはいないのだ。

だから父がこの九年前に亡くなった時も、薄情なようだが人間ではない我が子が息を引き取ったこの時ほど心を動かされはしなかった。

それほどまでに我が子の存在は、僕の心の内に深く刻みつけられていたと言えよう。

だが実のところ僕はその我が子に対してさえ薄情だった。

僕は生きとし生けるもの、全てに対し常に冷淡であり接し方も淡泊であり、一定の距離を置いていたのだ。時に冷酷でさえあった。

だからと言って、頼って来るものをけして見殺しにはしなかった。目に止まった者が困窮していると分かれば、座視することなく必ず救いの手を差し伸べるだろう。だがそれ以外の者は眼中になかった。

知らなければ助けようもないのは道理ではあるが、だからと言って自らの意思であちらこちらに積極的に出没し、すべての出来事に介入することは物理的にも肉体的にも不可能だ。

それに僕は自分が生きていく上で、他の人に倍して人間関係の自制が必要に思えていた。

そう思ったのは、持って生まれた気質そのものがそうであっただけでなく、僕が霊が取り憑きやすい霊媒者というか特異体質の持ち主だったからという理由もある。つまり人間だろうが他の生き物だろうが来る者拒まずであれば、それこそ僕の周りはその思いや霊魂で溢れてしまっていただろうと思うのだ。どうも僕という人間は、他人の想いや生き物の想いが取り憑きやすい体質のようだ。

だがそれでは余りにも肩の荷が重い。だからこそ人間に限らず、生きとし生けるもの全てに対して、僕は一定の距離を置くことを怠らなかった。

それは一番近しい妻にさえそうであった。

このように僕にとっては、あらゆる意味で他者との距離感は最も優先されるべきものであった。

べったりな関係は絶対的に敬遠したいところであり、つかず離れずといった微妙な関係を僕は好んだ。

だから我が子に対しても、近づく時は一気に近づき猫かわいがりをするが、大概は極端に冷淡だった。そして離れている時間の方が遙か多く長かった。

つまり傍目から見たら、相手のことなど考えない自分勝手で冷淡な付き合い方であった。

僕自身はそうではないと言いたいが、こうした他との関係は誰からも理解されたことはない。

妻には、普段はまったく我が子の面倒を見ない僕なのに、「良いとこ取りの猫かわいがりは止めてよね」とよく言われたものだ。言外に、「連れて来たのは誰だ」という恨み節も交じっていたように思う。

動物嫌いの妻を知っていて、ペットショップから連れて帰って来たのだからそれも当然であろう。

「猫かわいがり云々・・・」という非難めいた妻の言葉に対し、僕の返答はいつも同じだった。

「コイツはワンコだぜ!」・・・犬だから猫かわいがりではないと、実につまらぬ言い訳をした。

思い起こせば、連れてきて半年間は本当に猫かわいがりで躾も遊びも本気でしてあげた。我が子もそれに応えてすぐに懐いてくれた。物覚えも良い賢い子だった。よく見ればそんな我が子には、僕だけしか目に入っていないようなところがあった。

この人間社会において能力を買われ体よく利用されることはあっても、損得や利害関係抜きで誰かに全面的に信頼されたという記憶がない僕にとって、それはとても新鮮な感覚であり生まれて初めてその存在を守ってあげたいという感情が湧き出たのも宜なるかな。

それだけでなく、初めて子犬だった我が子を抱き上げた時の、あの何とも言えない感動を伴う生き物の温かさを僕はけっして忘れない。だからこそ、その小さな命を愛おしいと思った。僕は子どもを授からなかったので余計にその想いは強かったのかもしれない。

特に我が子が生後六ヶ月で前肢を骨折した時は、某国立東〇大学の獣医科附属病院に、仕事を急遽休んでまで連れて行って手術に立ち会ったし、退院時には生憎仕事中だったので早退届を出して迎えに行き、ケージも持っていなかったから我が子をスーツの上着でくるんで抱いて、何台かのタクシーに断れながらも、どうにかこうにか帰宅することが出来た想い出は今でも鮮明に覚えている。

それは命の尊さと儚さとを、改めて呼び覚ました出来事だった。

でも僕は熱しやすく冷めやすいのが本性である。

一年もすると仕事に感(かま)けて、というよりそれを口実に、次第に日々の面倒を妻に預けるようになっていた。

しかし我が子はそれでも僕を慕い、僕が家にいれば片時も目を離すことがなかった。

『一途』、、、そう思えるほど僕がすべてであった。

それからもいろいろと紆余曲折があり、我が子は何度も怪我をしたり病気になったりもした。

それはまるで僕の半生を辿るようで、何もここまで似て欲しくはないと思うほどだった。

しかし例え言葉を交わせなくとも、人間でもこれ程までに心が通じ合った存在は他にはいない。

それを思うとベッドの上で夢うつつながら、止まった涙が再び頬を伝いシーツを濡らすのだった。

 

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その夜の深夜二時過ぎに、僕は我が子の霊魂と邂逅した。

 

何かに突き動かされるような感覚を覚えて僕の意識は覚醒した。

だが目を開けようとしても何一つ見えない。それでも凄まじい勢いで体の中を何かが通過していくような、ゾクゾクとした感覚を体全体で感じていた。ブンブンと唸るような低い音まで響いていた。しかも空気を切り裂くようなヒュンヒュンという音まで混じっている。

そうした感覚をハッキリと感じ取っているにも関わらず、現実には何一つ目視できなかった。

冷静になってこの情況をもう一度考えてみた。そうして思い至ったのは、覚醒しているのは実は意識だけで、しかもその状態は完全ではなく半覚醒状態にあるという事実であった。実際には目は開いていておらず、目の前にその感覚の裏づけとなるものを目視した訳ではない。つまり僕が今見ていると思っているのは、夢で見たものと何ら変わりがない。

しかしそうした現状を打破しようと、手足を動かし目を開こうと試みても、それこそ手指の一本はおろか、両目どころか片方の瞼さえ今の自分の意思では開けないのだ。

この状態は恐怖以外の何ものでもなかった。

もう冬も近いというのに、額や顔全体に冷たい汗を浮かべ、首筋や背中は多量の発汗によってジトリと濡れている。実に不快で嫌な汗だ。身体がそうした反応を示していたのは、たぶん未知なるものの存在を感じ取ったがゆえの、恐怖による生理現象と思われた。

人間という生き物は、たとえそれが異形のものであったとしても、対象を目視できる状態にあるならば案外動揺は小さいものだ。つまり生来の小心者気質とか極端な臆病者でもない限り、目に見える対象なら恐怖することは余りない。現に僕は目で見て分かるものに恐怖したことは一度もない。

しかしそれを確認しようとしても未だ目は開かない。辺りは本当に真っ暗だった。

ゆえに怯えたのだ。これは果たして現実なのか。朦朧とした頭でこれが夢なのか現なのかをもう一度思案する。だがこの感覚はどう考えても現実だ。しかしマジに手も足も出なかった。

 

『僕は今金縛りに遭っている』・・・どうやらそれだけは明確な事実のようだ。

 

そうして色々思案するうちに、僕は己の経験から行き着くであろうある事実に思い当たった。神経が異様に研ぎ澄まされた時に必ず顕れる事象で、それは僕にとって当然の帰結と言ってもいいくらいだった。

これは過去にも経験した『霊魂との遭遇』と同じ情況に置かれているからなのではないか。

色々と勘案した上で、そう確信した。

だとしたら何が何でもこの情況から脱出しなければ、いずれ霊魂の力に引き摺り込まれるだろう。

未だ経験したことはないから本当のところは分からないが、霊魂に引き摺り込まれるということは、僕自身が霊魂になることを意味するのだろうと考えた。つまり僕はこのままでは霊魂の招きに因って死ぬしかないのだと解釈せざるを得なかった。

だとしたら今のこの金縛り状態は僕にとって相当ヤバイ情況にあるのではないか。

そう思うといても立てもいられなくなった。この情況からなんとか抜け出さなければ。そう思ったが、目がまったく開けられない。手指の一本すら未だ動かせないでいた。

だがそんなことは言っていられない。のっぴきならない情況であることを僕はまず自覚せねばならない。

『だとしたらまずは腕を動かそう』・・・なぜかそう思った。

その間もヒューヒューと音を立てて何か耳の傍を通り過ぎていく。それは途轍もない恐怖だった。何だか空恐ろしい音がする。何かが僕の周りにいる気配までする。だがそれら何一つ確認することすら出来ない。

こんなに寒い夜なのに、更に一層冷や汗が出た。だからも文字通り『必死』になって足掻いた。

そうして渾身の力を込めて目を開けようというのと、手を上に挙げようとする意思が重なった時、何だかバリバリと音を立てるように、いきなり手が動き、唐突にバキッと目が開いた。まずは左目。そして右目という順で両目が開いたのだった。

 

 

目の前に異様な光景が広がっていた。

 

 

窓辺は遮光カーテンが閉まっていて外光は入ってこない。照明も一切点けていない。そんな室内だから、本来ならば幾ら夜目が利く僕であっても、モノの輪郭さえ朧気にしか感知できないはずだ。

だが現実の室内は翡翠色の光で溢れていた。蛍光色と言って良いほどの明るい光で溢れている。

それを確認した瞬間、僕の目は大きく見開かれた。恐ろしさを感じながらもその正体を知りたいと思ったからだ。未知のものを、未知のまま捨て置かないという僕の欲求は、生来のものだ。

僕はその時仰向けに寝ていたのだが、目の前の天井が渦を巻いていた。なぜそうなるのか理解できなかった僕は、目をぐるぐる回して更に天井や室内を凝視する。本当は頭を動かして周りの状況を確認したかったのだが現実には未だ手足は自由にならず、従って身体のどの部分も自分の意の儘にはならなかった。よく見れば、先ほど腕が動いた感覚があったが、その感覚のまま両腕が何かを受け止めるかのように天井に向かって開かれていた。微動だにせずに!

これはいったいどういう情況なのだろう。皆目見当がつかなかい。何かヒントになるものはないか。そう思って目だけグリグリと動かした。

そうして僕は、遂にその原因となっているものの正体を、視界の端に捉えた。

幼い頃に見たのとまったく同じものが宙に浮かんでいた。

二つの四角錐の底面を合わせた様な、翡翠色の発光する八面体の霊体をこの目に捉えたのだった。

それは壁に沿った空間に浮遊し、ゆっくりと回転していた。天井が渦を巻いて回転している様に見えたのは錯覚で、実はこの八面体の回転に伴ってその光が投影されて、天井が回転しているように見えたのだ。よく見れば八面体の中心には更に明るい部分(たぶんこれが『光源』)があった。それが電球のような発光体の役目を果たし、外郭の薄いガラス状の翡翠色の八面体が、半透明なシェードの役割を果たしていた。それが八面体の中心にある『霊魂の核と思われる光源』の輝きを和らげているように思えた。

しかしその翡翠色のガラス状の八面体自体はきっちりとしたものではなく、角が融けたように鈍角となっていたり丸みを帯びていたり、三角形をした八つの平面体自体も完全に平滑な面ではなく、何だか厚みもまちまちでうねっているようにも見える。だから八面体の回転に合わせて天井が渦巻いているように見えたのだ。視線を移したら壁も同じように翡翠色をした濃淡のある斑模様がうねっている。その動きもどうやら霊魂だろうと思われる八面体の動きとシンクロしているように思えた。

それを知って、僕はなぜか安堵した。

それは嘗て親しくしていた友と久し振りに再会したような感覚だった。

えも言われぬ感慨というか、旧友に会ったような懐かしさだ。

ふと気づけば、いつの間にか金縛り状態から開放されていた。

そうは言っても未だ上体を起こせるほど自由になった訳ではない。霊体というか霊魂から制約を受けた状態から僕はまだ抜け出せていた訳ではなかった。というより、この霊魂が存在する間、僕は身体の自由を奪われて、拘束され続けられるのではないかと思われた。

 

その時、途轍もない速度で何かが視界を過った。それは左上から現れて右の壁に吸い込まれていったように思う。そう思う間もなく次はいきなり視覚の中心である天井から今度は僕に向かってその何かが突進してきた。思わず身構えようとしたが腕は天井に突き上げられたまま動かない。あっという間にその何かが僕の胴体を突き抜けた。

唖然とした。衝突した衝撃すらなかった。ただ胸の中にジーンとした余韻のような感覚だけが残った。そう言えば通過した時にヒュンという音が聞こえていたように思う。よく考えればこれは目を閉じていた時に聞こえた音に似ている。

次にそれが右の壁からそれが姿を現した時、その先端をよく見ると何かが駆けているのを確認した。またもや左の壁からそれは現れ今度は右の壁に吸い込まれていく。それが次から次へと部屋を構成する壁・天井・床・上下・前後・左右の六面を縦横無尽に走りまわっていた。

そうして最後は直線に進むのではなく螺旋状に駆けて最後は八面体の中に吸い込まれていった。

それは一瞬のことだったが、ひときわ八面体が明るく輝いた。部屋中が光輝いて見えた、

それでようやくその飛翔体の正体が、元気な我が子の駆ける姿であったと知ったのだった。

更に耳を澄ますと、まるで基調音のようなブンブンという微かな低音が聞こえる。それはまるで幾万という数の蜜蜂が群れ飛ぶ羽音のよう。それが部屋中に鳴り響いていた。

この音は八面体が音源だとしか思えなかった。

 

それらに気づいた僕は、全身が幸福感と充足感とで満たされていくように思えた。

 

そうして我が子の霊を取り込み、一時は輝きを増したかに思えた八面体だが、今は徐々にその光と輝きを失っていくように思われた。回転も徐々に遅くなっているようだ。はじめは明るい翡翠色の蛍光体だったその八面体も、今は濃い翡翠の結晶体へと変化(へんげ)している。

やがてそれは深翠となり遂に色を失った。と同時に回転も止まっていた。

 

霊魂との邂逅の時が終わろうとしている・・・。

 

そう感じた僕は静かに目を閉じた。

 

奈落の底に落ちていくように、瞼の先から次第に翡翠色が失われていく。

 

だが些かの不安も感じないし、ちっとも恐いと思わない。

 

ただ安堵感と満たされた想いがあるだけだ。

 

・・・・やがて色のない世界、つまり闇が訪れた。

 

暫し意識が飛ぶ。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・!

 

そして再び覚醒した。

 

僕は恐る恐る目を開けた。

 

仄暗い闇が部屋を包んでいた。

 

部屋にはもはや霊魂を示すものは何もなかった。

 

部屋は漆黒ではなく、ほんの僅かだが光が部屋の外から届いているようで仄暗い。

 

この部屋を構成し存在するものの輪郭が朧気に見えた。

 

五体も今では意のままに動くようだ。

 

身体に重みといったようなものがまったく感じられなかった。

 

・・・僕はようやく現世(うつしよ)に戻ってきた。・・・そう確信した。

 

我が子の霊魂は死の世界に誘(いざな)うのを止めて、僕を守る側に就いたことをそれで知った。

 

我が子『B』は遂に僕の守護霊になったのだ。

 

これで守護霊は三つ。

 

僕は善霊を呼ぶ霊媒者だった。

 

久し振りに邂逅した霊魂が、そのことを僕に想い出させてくれた。

 

 

 

あれから七年経った。

 

だがその後はいずれの霊魂とも遭遇していない。

 

でもいつかまた逢えるだろうと思っている。

 

それが新たな霊魂との遭遇なのか、それとも懐かしい霊魂との再会なのかは知らぬ。

 

だがもう一度逢える気がするのだ。

 

どんな形でもいいから、もう一度霊魂と巡り逢いたい。

 

僕が生きとし生けるもの全てを愛する心を失わない限り、それはいつか実現する気がする。

 

 

 

<執筆を終えて>

霊魂との遭遇談の最終回だけ、ノンフィクション小説にしようと考えて、一から原稿を推敲し始めたらほぼ書き直しになってしまった。それで公開日時を二回も変更したのは僕の力不足ゆえだ。
元々集中力はあるが根気がないのが玉に瑕。それに最近は、寄る年波にも勝てず体力が著しく減退したせいか、集中して書くのも一日二〜四時間が限度だ。それでもどうにかこうにかこうして最終回まで公開できたのは幸運かも知れない。
僕の経験を小説化するに際しては、書くことそのものは苦労したが、事実関係を調べることにはそれほど時間を費やしていない。僕は2016年に実際に経験したことを、ノートに詳細に記録していた。だからここまで書くことが出来た。
とは言っても元原稿は時系列に沿った箇条書きである。だから読者にも理解できるよう文章の行間を埋める作業が必要となり、小説化に少し手間取ってしまった。また、
小説化に際し箇条書きの行間を埋めるために、多少フィクションを交えざるを得なかったことはお断りをしておかなければならないだろう。
たとえば医師との会話などはそれに該当する。音声データなど残っていないので、というよりそんなものは端から存在しないので、会話の内容を一字一句正確に記すことは不可能だ。覚えてもいない。だから箇条書きの元原稿だけが頼りで、その行間をフィクションで埋めたという次第である。そう言えば青空を上げるシーンがあるが、それはノートにその日時とシチュエーションと共に、その時の心境も含めてちゃんと記載があった。そのように肝心要のところに嘘偽りは一切ないと自負している。
そうでなければ『ノンフィクション小説』と銘打つことなどできはしないのだから。

 

この掌編小説を読み、何か感じるものがあったら是非ともコメントを投稿して下さい。元より批判を恐れる僕ではないので、この掌編小説の読後の感想が単なる非難や誹謗や中傷でもない限り、揶揄や皮肉や僕の文章自体をコテコテに貶す内容であったとしても一切咎めはしません。むしろそれらは僕の血肉となって今後の執筆に役立つだろうと思っています。

ですからどんなに短いコメントでもどんな内容でも投稿してくれたら嬉しく思います。

そしてそれらコメントには必ず返信したいと思っています。

<おしまい>

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

<最後に> 

僕はこうした幾度の経験から霊魂の存在を否定しない。

だからこそ僕は、守護霊というものの存在を感じ取り、心底信じてもいる。

普段意識することは希だが、今も僕はそうした数々の守護霊に守られていると確信している。

僕を愛してくれた三体の守護霊。

だから僕は死ぬのはちっとも恐くない。

なぜなら死ねば必ずかれらに逢えるのだから。・・・・・・・・!

 

 

 

知っていますか?

 

 

 

あなたの周りにも霊魂がいることを。

 

 

 

LAST SERVICE SHOT.

上野の森美術館特別展.jpg

上野の森美術館『兵馬俑と古代中国〜秦漢文明の遺産〜』展(既に会期は終了)にて撮影したものをトリミング。

最後のブースの、秦の始皇帝の兵馬俑の撮影は許されていたので、自分も沢山写真を撮りました。これはその中の一枚。

 

 

 

 

Do you still not believe in the existence of spirits?

 

 

  

 

〜That's the end of it.〜

 

秘密の花園.jpg

〜僕が見つけた信州の、とある場所にある『秘密の花園』〜

とてもよく手入れされた庭園でした。単身赴任時に妻と我が子と行った想い出の地です。


〜2023/03/20 22:20追記&追加画像〜

ラス一で先日撮った桜の開花写真を一枚追加します。
 

一輪咲きました!.jpg


〜2023/03/21 11:50 追記〜

WBC準決勝、タイムリーが打てず三振・凡退で苦しんでいだ村上宗隆が、1点ビハインドの9回裏、ここ一番で逆転サヨナラ2ベースヒット。

これで決勝は対アメリカ戦!!! 明日もここに追記で『優勝』の二文字を追記できたらいいな。

 

〜2023/03/22 11:45追記〜

やりました! 3x2 WBCで ”SAMURAI JAPAN” 世界一!!!

日米投手とも全力で投げきった投手戦。いやはや最後まで気の抜けないスゴイ決勝戦でした。

 

ライフワークを優先するため、しばらくお休みを頂きます。・・・ではでは皆さまごきげんよう。

 

〜2023/03/23 14:15追記〜

今日のワイドショウで、田中ウルヴェ京さんが、WBC開幕前に栗山監督にインタビューした時の話をなされていました。それによると栗山監督は選ばれたメンバー(選手)一人一人に対して、三時間以上もの時間を費やして、その選手がWBCで何をしたいのかを語って貰ったそうです。栗山采配が成功した背景にはこんなこともあったんだなと思った次第です。

選手一人一人の自主性とモチベーションの高さと、全員で世界一を奪取しようという気概は、一人一人の個性を生かし、それを全員が一丸となって成し遂げる力となって昇華したと僕は思いました。選手一人一人が経験した、WBCを通した成功体験あるいは失敗も、すべて選手一人一人の今後の血となり肉となるでしょう。

他人を育てる。あるいは人とどう関わるのかという点でもとても勉強になった日本のWBCでの戦いであったように思います。

 

まるで平均台上の猫.jpg

〜小学校のネットフェンス上に座っているトラ猫、平均台上の体操選手並みの見事なバランス感覚〜

 

ご近所には地域猫がいっぱいいます。時々写真を撮りますが、これはその中の一枚。

 

〜2023/03/23 14:30追記〜

僕は父方の遺伝体質を受け継いだとしたら、癌になる確率は極めて高いと言えるでしょう。しかし、癌で亡くなった父や父の兄弟は、全員煙草好きでお酒好きという故人ばかりです。だからという訳ではないのですが、僕は若い頃よりお酒は殆ど飲まなかったし、煙草も五十歳を迎えた誕生日を機に「もう煙草は一切吸わない」と宣言してその日以来一度も煙草をすっていません。(当然電子煙草もデス)
・・・それでも癌になったら、僕は延命治療はしないと妻に宣言しました。

それは我が子の最期を見たからだと思います。

 

〜2023/03/29 22:00 追記〜

記事とはまったく関係のない話で恐縮です。

世の中の動きとかを、マスメディアやネットを通して見ていて常々感じることなのですが、『人は既成事実とか、常識なるものを一旦信じてしまうと、どんどん阿呆になる』んだと僕は思うのですね。

人間とは、自分の信用するもの(あるいは『信用したい』もの)に一旦判断を委ねてしまうと、考える力を放棄していつしか馬鹿になってしまうものだと僕は確信するに至りました。

ネット上の殆どはフェイクです。SNSも友人知人からのメールも配信ニュースも100%信用するのはバカのすること。そう警鐘を鳴らしても、過半の人は自分の判断は正しいと過信し、それを人々は信じるのですね。自分はお利口だと思っているおバカさんだから(*´∀`*)

故に「自分は騙されない』と思っている人ほど騙され易い。特殊詐欺と同じです!

それが証拠に、自分が情報操作されていると気づかいない。既存のマスメディアだって偏向報道していることに気づかない。たとえ気づいていたとしても、そうした偏向報道に警鐘を鳴らしている人の殆どは、その者自体の考えにバイアスが掛かっていることが殆どだ。ゆえにまともなインフルエンサーなどいないのが現状。

こうした人達は、偏向報道を批判している様で実はそうではない。なぜなら自分の利益になるとか、人気取りでそんなことをしているからだ。ゆえにバイアスに更にバイアスが掛かって、真実が更に遠退いていると感じることがしばしばだ。

それなのに、嗚呼それなのに、バカがバカの言うことを信じる負の連鎖に終わりはない。

だから『よのなかばかなのよ』という<回文>は正鵠を射ている。

本当にまともじゃないぜこの世の中。

そしてそこに棲む人々もどんどんおかしくなっている。

 

他人様の言うことは『一旦は疑ってみる』

 

、、、そうでなければ考え力を何れ失うのは必定。まあもう手遅れかも知れないけど( ̄∇ ̄)

 

 

 

ユキヤナギ.jpg

〜ユキヤナギも満開になっていました〜 

 

ライフワークを優先するため、しばらくお休みを頂きます。・・・ではでは皆さまごきげんよう。

 

 

 

コメント(55) 

コメント 55

夏炉冬扇

辛いお話でした。
by 夏炉冬扇 (2023-03-20 07:34) 

静謐な一日

夏炉冬扇さん おはようございます。
記事が長かったでしょう! お疲れさまでした。
あれから七年経った今でも『我が子』の最期を思うと目頭が熱くなり視界が滲みます。
でも今では辛い想い出より、楽しかった時の想い出のほうが、すぐに頭に浮かびます。
by 静謐な一日 (2023-03-20 08:25) 

yoko-minato

それだけ愛しい存在だったということですものね。
読みながら何とか助かってと願いましたがやはり
病は厳しいですね。

by yoko-minato (2023-03-20 13:13) 

風神

霊魂の出現は、どういった事によるんでしょうね。
愛された記憶愛した記憶は、魂に刻まれるんでしょうから、愛は一因となるんでしょうね。説明付かない不思議な事って、あると思います。
まだ経験は無いですから、貴重なお話です。
by 風神 (2023-03-20 17:49) 

八犬伝

凄い話でした。
私にはそういった経験がありませんが
守護霊となって護ってくれているのですね、いつまでも。
by 八犬伝 (2023-03-20 21:41) 

uchin

こんにちは、いつもご訪問ありがとうございます。
長文お疲れ様です。
最後の言葉ですが私もそう思います。
by uchin (2023-03-21 09:38) 

枝動

おはようございます。
私も同じような経験があります。
少し長くなりますが、その時の経験をお話します。
日々寄り添う中で、四肢にしこりが在るのに気づき、もしやリンパ腫ではと病院に走りました。
主治医曰く、「お前の見立て通りや、もう何もしてあげられない、諦めてくれ」ということでした。
違う所は、治療をしなかったことです。主治医の言葉に、治療をしても無駄だと悟ったのでした。その後8ヶ月、忘れるぐらい元気で変わらない日常を過ごし、楽しい日々を共有しました。
そして、突然立てなくなり、3日間自宅で点滴が出来るよう処置をしてもらって、主治医の見立て通り点滴を使い切った翌日に逝きました。
終の時、5時間もがき苦しむ訳ですが、泡を吹いて鬼の形相でした。
私の「頑張れ、生きるんや」という声がけが悪いとはたと悟り、「もういい充分だ、逝け」の言葉の後、呼吸も落ち着きすやすやと眠りました。そしてその1時間後、ガバっと上半身を持ち上げ、首を私の方に向けて目を見開き崩れました。まるで礼を言ってくれたかのようでした。言葉を理解しているし、意思疎通は出来ていた、と感じたのをよく覚えている瞬間でした。
私も親の時より、比べ物にならないほど泣きました。家族の誰かが居る時は我慢できたけど、食事の時、風呂に入ってる時、独りになると必ず泣きました。初七日まで、毎日読経しても無になれず、泣きました。
もう一つ違う所は、霊魂に会ったことが無いことです。しかし、霊魂の存在は信じています。家で見ることの無かったアオスジアゲハが、初七日の日に現れ、しかもその子の好きだった場所に止まっていました。初盆の時もアオスジアゲハが現れ、転生を信じてしまい、霊魂もきっとあると思うようになったのです。
それから、物事は偶然ではなく、全て必然だと考えるようになりました。起こる事象には、意味があるんだろうと。
私ももう一度会いたいです。霊感の無さでしょうか、夢にも出てくれないです。もう生きてる内は会えないのでしょうけど、彼岸で会えると思いますので、それでいいのです。
合掌。
by 枝動 (2023-03-21 10:02) 

werewolf

我が家の猫も、亡くなる前に大きな声で鳴きました。
他にも同じような例をいくつか知っています。
最後にお別れを言ってくれているのかな、と思っています。
by werewolf (2023-03-21 10:57) 

ポピポ

訪問、nice!ありがとうございます^^
by ポピポ (2023-03-21 11:07) 

ライス

こんにちは。
自分にも似たような経験があります。
子供の頃、一度連れてきた人・子供には吠えなくて、
小さな自分が散歩に出ても従ってくれる賢く慕ってくれる子がいましたが、
当時は屋外で飼っていてフィラリアにかかり、徐々に弱っていきました。
ある晩、その子と会話する夢を見て、画については今でも鮮明に覚えてます。
その翌朝、学校から帰ると亡くなっていて激しく泣きました。
それが最初で、親しい人、慕っている人・人以外がなくなる時に夢に見るようになりました。
そして就職して20代半ば、とある場所に実家が引っ越したマンションでは、
母親が足が悪くなり、父親と弟は喘息になり、自分と母親は金縛りが多くなりました。
他にも身体のどこかが悪い住民が多いマンションで、何かを感じてました。
(一時的な引っ越しでしたので2年ぐらいで引っ越しました)
ある夜、自分の部屋で人の気配がして、父親が煙草でも探しているのかと怒鳴ろうとしたら金縛りになりました。
何故か怖さは感じず、それまでもそのマンションでは怖さを感じない金縛りもありましたが、
このときは自分が寝ている周りを小さなものが走り回ってる感じで、
あとから、あの子が守っているのかと思い、
自分を守ってくれている金縛りもあるのだと思うようになりました。
by ライス (2023-03-21 13:27) 

Baldhead1010

私も16年飼ってた犬がなくなった時には泣きました。
その後、父や母が亡くなった時には涙は出ませんでした。

犬の名前はケンでした。
ことのほかかわいがっていた真ん中の子供のところに、死ぬ間際にやって来たそうです。
姿は見えなかったけど、強烈なケンの匂いがし始め、やがて匂わなくなったと。
ケンが死んだのは2月4日の立春の朝。
痩せこけた身体を自分の毛のシャツに包んで、畑の端っこの梅の木の下にスコップで大きな穴を掘り埋めてやりました。
梅は毎年きれいな花を咲かせ、たくさんの実を着けてくれます。
(近頃、ケンにも、父や母にも、なんでもっと優しくしてやれなかったのかと、自責の念は増すばかりです。)

by Baldhead1010 (2023-03-21 14:27) 

まるたろう

うちにいた犬が亡くなった時の事を思い出しながら、今記事を
読ませて頂きました。
by まるたろう (2023-03-21 18:07) 

Enrique

長文のコメント書いたのですが,なぜか受け付けられません。NGワードが入っていましたか。
by Enrique (2023-03-21 21:42) 

みずき

初代の犬は病院で夜に、二代目と三代目は
仕事中に死んでしまいました。どの子にも
最期にそばにいてあげられなかった後悔が
あります。最期を見送るの辛いですね。
by みずき (2023-03-21 23:04) 

mau

父が死んだ時も後悔ばかりでした。
守護霊になってくれたらよかったのに
by mau (2023-03-22 00:53) 

やおかずみ

ご訪問・コメントありがとうございました。
by やおかずみ (2023-03-22 11:27) 

tochimochi

辛いお話でした。
私も10代の頃、愛犬を突然の発作で亡くしたことが有ります。
その時の苦しみ様はまさに書かれているような状況でした。
動物病院に連れていくこともできずに、見守っていることしかできなかったのが心残りです。
ただその後に霊魂というものに遭遇したことはありませんでした。愛情が足りなかったのでしょうか。
by tochimochi (2023-03-22 15:35) 

JUNKO

胸が詰まるお話でした。
by JUNKO (2023-03-22 20:53) 

青い鳥

WBC、静謐な一日さま並びにSAMURAI JAPANを応援する私たちの願い通り見応えのある決勝戦に相応しい試合を見せてくれましたね。
テレビから目を離せませんでした。
さて霊魂についてですが、静謐な一日さまがご覧になった2度とも形は翡翠色をした正八面体で角が丸みを帯びていたとの事。人以外の動物であっても人と共通なのですね!
霊魂は親しかった人を一緒に霊界へ連れて行こうとして、それを拒まれると守護霊になるのでしょうか?
親しかった人なら、初めから守護霊になってくれてもいいのに・・・と考えてしまいます。
by 青い鳥 (2023-03-23 09:20) 

拳客

愛犬を思い出しました。
病気もせず、死ぬときはあっと言う間に逝ってしまいました。
延命治療と言う選択肢、私は犬を飼うときには決めていましたが、それを実行することなく済んだこと・・・親孝行な子でした。



by 拳客 (2023-03-23 11:42) 

bgatapapa

拝見しました
by bgatapapa (2023-03-23 13:58) 

馬場

こんにちは~
愛犬との悲しい別れ話があったとは存じませんでした。
我が家でも昨年の暮れに、最後の「まだ家族と一緒にいたい」と言っているかな様な遠吠えは耳に残ってます。
動物の延命治療 本当に難しい問題だと思います。
それなのに、またおチビ君が我が家に...年になると複雑です。

静謐な一日さん、無理されません様に....


by 馬場 (2023-03-23 17:00) 

miagolare

延命治療はしない宣言、わたしもしてあります。
by miagolare (2023-03-23 19:22) 

そら

家はずっと色んな子と暮らしてきたので。
時々足元なんかに帰って来ています。
わんこが眠ってしまった時が、一番辛かったなぁ。
記事を拝見してて、涙が止まりませんでした。
by そら (2023-03-23 21:31) 

Enrique

当方は兄の副鼻腔癌の抗癌剤治療の様子を見ていましたが,その様子をここまで詳細には書けません。愛犬の闘病と旅立ちが貴兄にとって如何に大きな出来事であったかがわかります。
人間なら保険があり高額な治療でも上限がありますが,動物となると青天井。金銭で測ることはできないにしても,精神的負担に加え金銭負担は大きなダメージです。

治療の細部に関して。
呼吸を助ける「鉄の肺」では減圧で良いと思います。1気圧の空気で酸素が約2割ですから,少し気圧を下げても酸素量が多い上にむしろ肺が膨らんで楽になるはずです。加圧は医療用の特殊治療なのかもしれないので何とも言えませんが。確か宇宙船でも初期はやや加圧した純酸素を使っていましたが,アポロ計画初期の火災事故で飛行士を亡くした反省で,窒素を入れて地上の空気と同じ様にしたのだったと記憶します。

愛犬の霊が守護霊になったと悟った件。
言うまでもない事かもしれませんが,過去のお祖父さんの時などと同じような経験で,その方々の霊が守護霊になった前例があるだろうと思います。ただその経緯と過去の実例との付き合わせがないと,これだけを読んだ人にはその帰結が分かりにくいと思います。愛犬が3体目の新たな守護霊となり,あの世に行くのが怖くなくなった気持ちの変化も,彼らに会えるからというのがその理由ですが,生前守ってくれる守護霊とあの世の霊とは同一のものなのか?それは程よく切り替わってくれるのか(その問題が「連れて行こうか守護霊になろうか」という葛藤?)それは自明の事なのか?むろんそこはご自身の主観的気持ちの問題ですから,実際そういう経験と気持ちの変化のない人には分かりにくいのはやむを得ないのかなと思った次第です。
言わずもがななコメントでした。
by Enrique (2023-03-24 06:29) 

kuwachan

辛かったことでしょう。
読みながら母が亡くなった時のことを思い出してしまいました。
あの時はあれが最善の方法だったと思うようにしています。
by kuwachan (2023-03-24 07:24) 

静謐な一日

yoko-minatoさん こんにちは。
実は妻の姉、僕にとっては義姉が、『B』と同じ悪性リンパ腫で亡くなっています。このことがあった二ヶ月後のまだ松の内が明けていない真冬のことでした。
そして『B』が死んだ日は、妻の父、つまり義父の命日とまったく同じです。
by 静謐な一日 (2023-03-24 14:39) 

静謐な一日

風神さん こんにちは。
僕にも説明はつかないです。
生前の結びつきが強ければ逢えるというものでもないですし。
僕は、霊感というのは元々皆が持っているものと思っているのですが、その出現の条件というものがもしかしたらあるのかも知れません。
それが何なのかは僕にも分からないのですが、亡くなった者の僕に対する想いが強ければ強いほど、出現の確率は高くなるのではないかと思っています。
何一つ科学的は根拠はないのですが、、、。
by 静謐な一日 (2023-03-24 14:45) 

静謐な一日

八犬伝さん こんにちは。
守護霊というのは、あくまでも僕の霊的な感覚でありしかも主観です。
ですから守護霊だという科学的根拠もありません。
ただ何か事ある度に、今この時も僕を守護する霊が、どこかで見守ってくれているという感覚はあります。
間違いなく!
by 静謐な一日 (2023-03-24 14:50) 

静謐な一日

uchinさん こんにちは。
Do you still not believe in the existence of spirits?・・・ですね!
恐らく疑う者の前に、霊魂は現れないと思います。
by 静謐な一日 (2023-03-24 14:52) 

静謐な一日

枝動さん こんにちは。
ほぼ同じ頃のお話だったと記憶しています。
まったく同じと迄は言えませんが、同じ想い、同じ経験を共有できた事は、けして偶然ではなく運命的なものを僕は感じています。
by 静謐な一日 (2023-03-24 14:58) 

静謐な一日

werewolfさん こんにちは。
身近な生き物は、『飼い主さんに別れの挨拶をする』とは聞いていましたが、僕も実体験をするまでそのことに半信半疑でした。
by 静謐な一日 (2023-03-24 15:00) 

静謐な一日

ポピポさん こんにちは。
こちらこそ!
by 静謐な一日 (2023-03-24 15:01) 

静謐な一日

ライスさん こんにちは。
間違いなくライスさんにも霊感があると僕は思います。
僕は唐突に何の脈絡もなく頭に思い浮かんだことが、数時間後、あるいは一両日中に、目の前に現出したという経験を数限りなくしています。
それは他愛のないものが殆どなのですが、所謂『虫の知らせ』というものも事前にあることは確かです。
by 静謐な一日 (2023-03-24 15:08) 

静謐な一日

Baldhead1010さん こんにちは。
父が亡くなった時に涙は出ませんでしたが、親が亡くなって初めて親の有り難みが分かるという想いは感じました。故になぜ親孝行が出来なかったのかという悔いは必ず(誰にも)あると思っております。

うちにも土地があったらそうしたのですが、土地付きの不動産を売却していたので、埋葬は出来ませんでした。甘夏ミカンの木があったのですがね。
by 静謐な一日 (2023-03-24 15:15) 

静謐な一日

まるたろうさん こんにちは。
生きとし生けるものはすべて愛おしいと思える時があります。
by 静謐な一日 (2023-03-24 15:17) 

静謐な一日

Enriqueさん こんにちは。
NGワード特に入っていません。SSブログのセキュリティーコードというか、アルゴリズムに引っ掛かるとそうなることがあるようです。
それと、SSブログのサポートが何らかの理由により制限を掛ける場合とか、悪意ある第三者がそうしている場合もあり得ます。
それと、投稿できないという連絡は、Enriqueさんだけでなく、他の方からも頂いております。
by 静謐な一日 (2023-03-24 15:22) 

静謐な一日

みずきさん こんにちは。
ええ、親しい者身近な者の最期に立ち会うのはとても辛いことです。
by 静謐な一日 (2023-03-24 15:24) 

静謐な一日

mauさん こんばんは。
これはあくまでも僕の実体験と、それによってもたらされた感慨ですが、守護霊になるかならないかというのは、霊魂になる者との生前の関わり具合と自身の霊感的な資質に因るものではないかと思っています。
かと言って故人(亡くなった者・ペット等)関わりが浅いとか深いという意味ではなく、霊魂の質と霊性に因るものだろうと推測しています。
by 静謐な一日 (2023-03-24 17:13) 

静謐な一日

やおかずみさん こんばんは。
こちらこそ。
by 静謐な一日 (2023-03-24 17:14) 

静謐な一日

tochimochiさん こんばんは。
同じような辛い経験をなされたとのことですが、その経験は後々の人生の中で必ず生きてくるだろうと思います。
それと、愛情が足りなかったということではないと思います。
by 静謐な一日 (2023-03-24 17:17) 

静謐な一日

JUNKOさん こんばんは。
最後まで、長文を読んで頂いた上でのコメント、ありがとうございます。
by 静謐な一日 (2023-03-24 17:18) 

静謐な一日

青い鳥さん こんばんは。

>霊魂は親しかった人を一緒に霊界へ連れて行こうとして、それを拒まれると守護霊になるのでしょうか?
>親しかった人なら、初めから守護霊になってくれてもいいのに・・・と考えてしまいます。

あくまでもこれは僕の主観で客観的事実とは言えません。僕がそう感じたということです。そして、と言うよりむしろそうだからこそ僕にとってそれは事実であり真実だろうと信じられるものです。
それと守護霊となるかならないかは、守護霊となる者と守護される側の霊性と、その共鳴・協調(『魂のシンクロ』と言えばご理解願えますでしょうか)によるものと僕は考えており、必ず守護霊になるとは限らないと思います。
それを考えると、生前のお互いの関わり合い方が、守護霊になるかならないかを決定するのではないかと感じてはいるのですが、その度合いとか基準になるものはないので、どう説明して良いのか僕にも分かりません。
by 静謐な一日 (2023-03-24 17:29) 

静謐な一日

拳客さん こんばんは。
あっという間に逝ってしまったのは幸運だと思います。
人であれ動物であれ、苦しむ姿を目の前で見るのはとても辛いものです。
by 静謐な一日 (2023-03-24 17:32) 

静謐な一日

bgatapapaさん こんばんは。
いつもありがとうございます。奥様共々ご自愛下さいますよう願っております。
by 静謐な一日 (2023-03-24 17:34) 

静謐な一日

馬場さん こんばんは。
「十年先まで考えた? 命を預かる以上、その死まで看取ることが出来ないなら、飼うのは止めましょう。私は、その命に責任を持たなければならないという自覚無しに飼うのは、余りにも無責任で身勝手だと思うの!」と妻に言われて、確かに自分の十年後の健康がどうなっているか予測はつかないと判断し、もう一度我が家にWANを迎え入れるのを断念しました。
以来、生き物を飼うとは、そういう事なのだなと僕は思うようになりました。
by 静謐な一日 (2023-03-24 17:43) 

静謐な一日

miagolareさん こんばんは。
一応癌や高度医療を受けられる生命保険には加入しており、十年ごとに契約内容の見直しまでしています。ですが抗がん剤治療とか、放射線化学療法とか苦しむ治療はしたくないなと、それなら終末セラピーを受けた方が良いのかなと思っています。
by 静謐な一日 (2023-03-24 17:49) 

静謐な一日

そらさん こんばんは。
身近に血の通った存在がある環境というものは、とても良いことだと思っています。
ですからそれを失った時の哀しみもまた深いのかも知れません。
by 静謐な一日 (2023-03-24 17:52) 

静謐な一日

Enriqueさん こんばんは。再びのコメントありがとうございます。
アポロ計画の地上試験段階で、3名の宇宙飛行士がカプセル内火災で亡くなった事故を、僕はリアルタイムで知っています。また、その火災事故は、立花隆の『宇宙からの帰還』初版発行以前の出来事であり、当然その記述もこの本には記載があり、司令船内はそれ以降地上と同じ1気圧で酸素と窒素の分圧の比率も同じにしたという事実も知っております。
しかし、船内はそうであったとしても、あくまでも宇宙服内では発射3時間前に100%の酸素を供給して、窒素をシャットアウトする措置が取られていました。それは宇宙空間に入ると同時に、宇宙服を脱ぎ減圧する必要があるからで、その時点で肺胞に窒素が存在すると、潜水病と同じ症状になるからです。上記の理由により、現在も発射の3時間前から宇宙飛行士は宇宙服を着て100%の酸素を吸っています。
それと僕が調べた範囲では、医療において『減圧下の100%酸素治療』というものは存在しません。必ず『加圧』です。これを『高気圧酸素療法』というのだそうです。何故そうするのかといえば、高圧下ではヘモグロビンに溶解する酸素量が飛躍的に増大するからです。一方減圧では、溶解する酸素はゼロです。また100%の酸素を供給する事によって、敗血症によって発生した嫌気性細菌を死滅させる効果もあり、片肺で敗血症状態だった『我が子』はそれで(一時的ではあるにせよ)奇跡的な恢復を見せたという訳です。ご理解願えたでしょうか?
次に守護霊の話ですが、その存在について科学的な証明は何一つ僕には出来ません。それは言うまでもなく、守護霊が存在するという考えは、あくまでも僕の主観だからです。
僕が霊魂を目撃し金縛りに遭った後、それから解放された時に真っ先に感じたのは「ああこれで『B』は僕を守る立場になってくれたんだなぁ」という感慨でした。そして実際にも、それ以降僕は何か事ある毎に『B』に護られているという感覚があるし、それを実感しています。僕が窮地に陥った時に閃く直観とは、即ち守護霊から受ける啓示のようなものと僕は考えており、それは科学的なものではなく、また客観的事実に基づいたものでもありません。でも僕はそれを信じているということです。
因みに他二霊の守護霊の中に父は入っていません。恐らくそれは、生前の父と僕との間に確執がずっと存在していたからに他ならないと思っています。かといって反目していたとか対立していたとかではありませんよ。『家業を継ぐ継がないという現実』に直面した時以来の、父と子の関係とか家族はこうあるべきという、僕と父の考えの不一致に因るもので、それは最後まで一致することはありませんでした。
それと、他二霊が誰なのかは、現時点ではそのことについて記事を書くつもりはありません。しかし絶対ないとは言いません。また別の機会があれば公開することがあるかも知れません。
by 静謐な一日 (2023-03-24 18:52) 

静謐な一日

kuwachanさん こんばんは。
僕も妻も身内(親兄弟、叔父叔母)の多くを癌で亡くしており、その時の辛さを共有しています。ですから肉親の死の辛さは理解できるものがあります。
by 静謐な一日 (2023-03-24 18:55) 

なかちゃん

ご訪問が遅くなってすみませんでした<(_ _)>
いろいろとゴタゴタしてたもので、ブログはほとんど後回しの生活でした。
ボクも霊魂というか、魂の存在ってあると信じています。
しかし、ここまで具体的な経験ではありませんが。
この歳になると、こんな別れが辛いので新たなかわいい家族は迎えることが出来ません(^^;

by なかちゃん (2023-03-24 20:35) 

静謐な一日

なかちゃんさん おはようございます。
桜の開花宣言どころか満開ですね。
でもアリスのコンサート残念でした。
by 静謐な一日 (2023-03-25 04:52) 

kgoto

読ませていただきました。
ありがとうございました。
3年前に旅立った先住犬を思い出しました。
切ないながらも、短い一生を終える宿命に向き合うことの大切さを改めて感じた次第です。
by kgoto (2023-03-26 10:10) 

たいへー

・・・今でも時々、ピーちゃんの気配を感じます。
by たいへー (2023-04-13 08:29) 

caterham_7

ユキヤナギ先日折ってしまいました・・・
結構伸びていて、車を出すさいに(変な車)挟み込んだらしく
根こそぎ・・・
by caterham_7 (2023-04-15 23:01) 

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