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『屍者の傍らで眠る』〜其の漆 [ゆくすえ]

セブンシスターズ.jpg〜SEVEN SISTERS IN THE TWILIGHT.〜

 

 

 

  

再び恩田陸の小説から言葉を引用しよう。

出典は同じく『ユージニア』だ。

事実は、ある方向から見た主観に過ぎません。

さすが陸さん、「確かにそうかも知れません」と言ってしまいたくなるほど見事な言い回しです。

でも事実って実際にあった事で、誰の目から見ても考えても、けっしてそれを否定できないものだと僕は思う訳です。主観は十人十色ですから、答えが違っているのは当たり前田のクラッカー。

だから事実は、主観の数だけ答えがあるのではなく、たった一つです。

それに、そもそも事実というものは『客観的事実』とイコールであり、見る人によって否定されたり肯定される『主観的事実』などこの世には存在しないのです

ゆえに認知バイアスというか主観を通してみたものは、それはもう事実とは呼べない代物です。

僕が思うに恩田陸は、登場人物のこの男性の言葉に事寄せて、本当は「ある方向から見たに過ぎないものは主観であり、それは事実とは呼べない」と意図的に語らせているのだと解釈しています。

・・・あのね、少しは言葉や文章の裏に隠された作者のギミックを読んでくださいね。小説は作者の思惑や主観の塊なのですよ。なので言葉を額面通りに受け取るようでは、本読み(読書家)の醍醐味と楽しみを半分放棄したようなもの。

特に推理とかミステリー小説は額面通り受け取っては作者の意図に見事に騙されてしまう。まあそういう読み方も否定はしないけど、それってただのミーハーじゃないかと思うわけ。だから本読みを自認するなら、素直に読んじゃいけないんです( ̄^ ̄)※客観的な文章を見たいなら論文でも読めばいい。

ついでに言えば『真実』もそう。

推理漫画の『ミステリと言う勿れ』(田村由美 作)では、

真実は人の数だけあるんですよ、でも事実は一つです。

と主人公久能整は饒舌に語るのですが、これも違うなぁと僕は欠伸をかみ殺しながら思う訳です。

真実の解釈として一番正しいのは、新明解国語辞典【第八版】の同項目の記載にあるように、あらゆる点から見て、それだけが偽ったり 飾ったりしたところの無いそのものの本当のすがたであるとらえられる事柄(様子)だと思っています。

つまり微に入り細に入り、あらゆる観点から矯めつ眇めつその対象物(事象)を眺めていき、そうして贅肉という贅肉を削ぎ落として最後に残った、その根底にある誰が見ても変わらない根源的本質だけが『真実』だと僕は思うのですね。えっ、長ったらしくて理解できない。

じゃあ、僕流の言葉で分かりやすく例えます。

人の思惑や感情から生じた修飾語を、全て取り払った主語と述語だけの素の状態にしたのが真実。

・・・ということになります。え〜〜〜っ、ますます分かんなくなったぁ。

あのね、僕は付いて来られない人に何度も手を差し伸べるほどお優しくはないのだよ(爆)

もし違うと思ったら反論頂いても結構!(*´∀`*)・・・僕は反論大歓迎!

話を元に戻します。

しかし大概の人は、心に濁り無き状態で目の前の事象を見たとしても、直観で得られるのは事実までだと僕は思う訳です。根源的かつ本質的なもの、つまり真実は霊感と霊魂の導きが無ければ、その糸口すら見いだせないというのが実情ではないかと考えています。

だって僕が見る限り殆どの人は嘘を嘘と見抜けない。欺瞞と偽善をお間抜けなほど見抜けない。

却ってそんな似非インフルエンサーや、アクセス数トップブロガーを崇拝までしちゃってるわけ。


俺ガイル.jpg


事実と真実の意味、そしてその解釈・・・。

なぜこんな話を冒頭に持って来たかと言えば、霊魂の存在がいつの時代であっても、洋の東西も老若男女も問わず人口に膾炙するのは、或いは現世に措いても多くの人の中に霊魂の存在を信じ、感じる人達が一定数いるというのは、たとえそれがエビデンスが得られない事象であったとしても、それこそが事実であり、延いては真実であると確信しているからなのです。

古今東西どの社会でも世界であっても、『霊魂が存在する』というお話が連綿と絶えることなく伝承されて来た事実は、それ自体が霊魂の実在を何よりも物語っており、それこそが見えないながらも、たとえ理解の範囲・範疇を超えていたとしても、それでも尚霊魂の存在を証明していると僕は思い、尚かつ確信する訳です。


つまり存在を否定しきれなければ、『それは紛れもなくそこに在る』と考えるのがごく自然です。

 

さあここからが本題。

 

心霊現象や神秘体験といった超常現象を見たと話すと、大概の人々は眉に唾して話を聞くものだ。

まあ現実的にそうした体験を再現することは不可能であろうし、霊魂は殆どの人は不可視だから検証出来ないし、再現性もなく検証性も不可能となればこれはもう『科学ではない』と断じる人が殆どではなかろうか。

だがそれ(霊的存在を証明できない現実)が事実であったとしても、有史以来、霊魂の存在は洋の東西を問わず、ずっと絶えることなく語られて来たのもこれまた事実。つまり科学万能の現代社会においても、それを一概に否定も肯定も出来ないのが現実であろう。それに大概の人は、霊魂と、霊魂が存在するという死後の世界を見てはいないし、もしいたと仮定してもそれを客観的事実を以て証明できないのが正直なところだ。

然しながら、存在を否定はできないが、逆に存在を証明するものもないとなれば、それは研究の対象であり科学的興味あるいは関心事の範疇である。

故に古来から心霊現象に関わる研究は数限りなく為されて、それこそ天文学的な文献や書籍が記され発表されて来た。まあ興味本位の書籍雑誌の方が、悪貨は良貨を駆逐するの譬えよろしく、遙かに学術的専門書を凌駕してはいるが・・・。

しかしそれでも尚、神秘現象や幽霊や霊魂の存在は人文科学の一分野として明確に存在している。


夕の叢雲.jpg 

『我思う、ゆえに我あり』

 

デカルトではないが、人々が霊魂の存在を懐疑的に見て幾ら否定しようと試みても、その存在が懐疑的だと思っている自分が在る以上、その時点でそれを思う自分の存在を認めたことになるのだから、自分の存在と同じく霊魂の存在もまた到底否定しょうがないのである。

アハハ、また人を惑わすエセ哲学的な言い方をしてしまった。それにこれ禅問答かよ!!!

しかし科学万能社会の現在でも、今以て誰一人霊の存在を否定も肯定もできないのは事実だろう。

皆はそれでも尚、霊魂の存在を信じられないかもしれないが、それが証明できなからといって、

『それが科学的でないと断じるのは科学的ではない』

という真実を皆さんは肝に銘じるべきであろう。

コペルニクスが『地動説』を唱えてからも、3世紀以上もの長い間、人々や宗教界は天動説を信じて疑わなかった事実が何よりもそれを物語っている。地動説は16世紀半ばの発表だが、カトリックはおろかプロテスタントまでも当初それを否定し、ローマ教皇庁はニコラウス・コペルニクスの著書『天体の回転について』を17世紀初頭に<禁書目録>に加えたほどだ。

 

人間とは、自分たちの持つ価値観や固定観念を、容易に変えられない生き物だ。己の根幹をなす思想や概念を変えることによって得られるものより、失うことの方を遙かに恐れるが故だと思う。つまりここでも人間は情動に基づいた主観から離れられず、理性に基づいた論理的かつ客観的な事実を直視すること能わず、況してや真実に至れない愚かな生きものなのだ。

ちょっとセンテンスが長すぎて、尚かつ読点も多かったから、分かりにくかったかな。まあ理解できないならそれでいいけど、僕はこれこそが『無知』の正体だと思っている。つまり無知と頑迷と保身はセットだ!

 

話を元に戻そう。カトリックの総本山、ローマ教皇庁が公式にこの地動説を認めたのは、何と19世紀になってからというのだから、人間は如何に新しい説(人々の考えを一変させてしまうような事象、あるいは理論・学説)を受け入れがたい愚かな生き物であるかが、これで分かろうというものだ。

その事実は科学万能の現在に措いても然り。それからすると『コペルニクス的転回』とは、頭では理解していても人々の心の内には容易に受け入れられない概念だ、というのが現実というものだろう。

人々は科学的に立証されるされない以前に、感情で物事や事象を判断し、理解できないものは拒絶するか無視するのが常だ。経験もなく自覚すらできいないなら尚更だろう。糅てて加えてそれでも尚信じない頑迷な人々は少なからずいる。そのように、自分の理解の外にある存在に対する拒絶感は、理性的且つ科学的好奇心に勝るのが常だ。

しかしそれは自己保存の法則にも反した誤った行動であると僕は断じよう。知らないことを、知らないままにして置くことは、己の身を危うくしかねない。これこそが真実!

ところが現実の世界では、それと真逆のことが繰り返されている。

例えば、ドイツでは科学者や著名な知識人ですら何ら科学的根拠もない『陰謀論』を唱えて逮捕された。ドイツばかりか『陰謀論』発祥の地である米国を中心に、世界中で物議を醸し出している事実を知らない者は少ないであろう。

しかし、この『陰謀論』の科学的根拠を示せと言ったらそれこそ誰一人それを証明できないであろう。それでも世界中で、そして欧米かぶれの日本人の過半もそれに靡いて、『陰謀説』を信じて話題に載せ人口に膾炙するのだ。

何一つ科学的ではない、情動そのものである『陰謀説』をね(o゚▽゚)o

僕に言わせれば、皆バカに見えてしょうがない。幾ら学歴や知識があろうともね。

その僕だが、前述の通り好奇心旺盛で、知らないものを知らないままにして置けない困った性格の持ち主だ。良くいえば探究心旺盛、悪く言ったら真理を見極めるまでは諦めない「しつこさ」が僕の特性であり個性なのだ。

ところで『知らないものを知らないままにして置けない』というのと、『遣られたら遣り返す』は、何だか同根であるような気がするのだが、これは果たして僕だけが思うことであろうか。僕はすべての事を宙ぶらりんのままにしておけない困った性格なのだ。

だから僕には、「これはひとまず置いておいて、次に取り掛かろう」などと思う以前に、そんな不埒な行いはそもそも出来ようはずもない。なにしろ僕が僕でなくなってしまう( ̄∇ ̄)

 

これは上記に関連した(笑える)余談だ。

思えば高校まで、試験の度に僕は全ての問題を淀みなく解いていった。しかも30分以内にすべて回答するのを旨としていた。当時の試験時間は大概50分だったが、30分経てば試験を監督する教師に答案用紙を渡して、教室から出て良い決まりになっていたからだ。

しかしある日、全く知らない設問が、試験の最初の方に出題されていた。僕が風邪で休んだ日の授業で出たものであったらしい。

教科書にも記載のないその事を誰も僕に教えてくれなかったのは、僕はクラスの中で浮いた存在でもあったからのようだ。僕はいつ如何なる時も孤高の人なのだ。つまり今風に言えば『ボッチ』な存在だった訳だ。

まあそんなことはどうでもいい。

僕は普段から予習復習はしない。宿題もやって来ない。しかし成績は良かった。なぜなら授業だけは真面目にかつ真剣に聞いていたし、分からないままに授業を終えることは決してしなかったからだ。

つまり授業を受けなかったからその設問を解けなかったのだ。

しかしこの時ばかりは、分からないことをそのままにして置けない性格が徒となって、それ以降の過半の問題に手を付けることが出来なかった。それで高校に入って初めて赤点を取った。

次週その教科の教師が答案用紙を返す授業の冒頭で、本来は出席番号順に答案用紙を返されるはずなのに、僕の名前だけがなぜか呼ばれない。

「あの〜、僕の名前呼ばれてないんですけど!」と言おうとしたら、、、

「赤点を取った者が一人いるので、それを今から返そう。〇〇君前へ」

てな次第で、僕の名前が呼ばれた。

そして普段から冗談一つ言わない、「苦虫先生」と僕が渾名したその物理B担当の老教師は、いつものように顔色一つ変えずに真顔でこう宣った。

「次の期末試験で80点以上取らないと、君は留年だからその覚悟でしっかり勉強するように」

名前で呼ばずにこの教師は誰でも『君』と呼ぶ。僕はそういう呼び方も嫌いだったが、それよりも何よりも説教臭いのが大嫌いだ。自分の考えを押しつけるな、と言いたい。

この教師もその類いだった。何のことはない、普段から『質問魔』である僕への意趣返しである。高校二年生の分際で、教師の話に、しかも専門分野の物理Bの説明そのものに異論を唱えて楯突いた過去が、この教師には殊の外腹立たしかったのかもしれない。たかだか十六七の小僧に面子を潰されたという訳だ。

僕は内心ではそう思ったが、敢えて無表情でその声を聞いた。

だがクラスメイトの反応は違った。

普段は取り付く島もなく、一分の隙すらもないこの僕の為体に、ここぞとばかりにどっと笑ったのである。いやはや愚昧なクラスメイトはこれだから困る。

だから僕は間髪容れず、こう返答をした。

「ああそうですか。だったら期末テストで百点取るって今ここで宣言しますよ。僕満点取ります

 

この手の話は中二以来、久々の二回目である。それに売られた喧嘩は買う主義だ。

対するこの教師、人を見る目がないから、バカにした目で僕を見ていたけれどね。

あれはどう見ても『出来っこない』という顔をしていたね。これだから俗人は嫌いだ。

人間遣ろうとすれば過半のことはできてしまうもの。

殊に僕に限って言えば、目の前の壁が高ければ高いほど、人一倍燃えるタイプだ。

 

以来しばしの間、僕の渾名は「100点満点」、或いは「僕満点取りますだってよ〜」になった。

ところで結果はどうなったの? そう聞きたそうだね(*´∀`*)

僕は『有言実行』の人である・・・がその答えだ!

 

因みに、これまでの人生の中で一番勉強したのは、この時が最後であった(爆)

不正な行いを目撃した時とか、理不尽な事をされた時以外は、テキトー〜〜〜( ̄∇ ̄)

という次第で、普段の僕はONの時より、OFFの時間の方が圧倒的に長くかつ多い。

つまり基本、怠惰、自堕落なのである。

ところで人をその性質で分けると、官吏型と軍人型に二分されるという。

だとしたら僕は軍人型だ。

普段から訓練は怠りないが活躍できるのは有事のみ。

平和が続く限り出番はない、つまり普段は『無用の長物』である。

そのように、僕の真価を発揮する場は極端に少ない。

糅てて加えて、悪目立ちする『遣られたら遣り返す』かつ『けして諦めない』という、

困ったちゃんな性格は終生直りそうもない(@^▽^@)アハッ!

 
  
  
・・・・・・・・!
 
 
 
知ってました?
 
 
 
あなたの周りにも霊魂がいることを。
 
 
 
実は恩田陸の『ユージニア』、まだ第四章「電話と玩具」の前、全体の1/4しか読んでいない。
故に完読したいので、中途半端なお話となってしまいましたが、今日はここでお終いとします。
最近つまらぬものに気が散って、大好きな小説さえ一気読みが出来なくなった。
人並み外れた集中力と怒濤の一気呵成が取得の僕から、それらがなくなったらお終いかも知れぬ。
いつもながら脱線気味のお話ばかりでゴメンね。
いつになったら心霊体験や霊魂の話をするのだという、声も聞こえて来そうだがしばし待たれよ。
次回こそ、その話ができそうな予感がする。あくまでも予感だけど悪寒じゃないから多分大丈夫!
 
ではではご機嫌よう。
 
 
 
〜TODAY'S SERVICE SHOT.〜

天城辺りに沈む夕陽.jpg

 

 

この先は次回。

 

 

 

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『屍者の傍らで眠る』〜其の壱 [ゆくすえ]

07寄せる波に想いを寄せる.jpg


人生の黄昏という言葉がある。でも僕は死ぬ間際まで明るく輝いた人生を歩みたいと思うんだ。

 

挫折多きこの半生。

人生の悲哀は何度も味わった。

生きていく以上そんなことは誰だって一度や二度は経験しているもの。

しかし老いてからの挫折とそれに伴う心の痛手はさすがに堪えるもの。

還暦を過ぎてからの挫折は二度ほど味わった。

一度目はなんとか乗り越えたが二度目は殊の外堪えた。

そこから再び立ち上がるのは挫折には馴れているはずの僕でも容易ではなかった。

でもどうにか立ち上がって今僕はここにいる。

明日になれば東の空から太陽がまた昇るように、

僕もまた何食わぬ顔で明日を迎え、

天から与えられた日々を精一杯生きるだろう。

生きている限り哀しみや苦しみを乗り越えてそうやって日々を生き切るであろう。

天から召されるその日まで。


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