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『屍者の傍らで眠る』〜其の肆 [それから]

紺碧に変わる.jpg『TWILIGHT』

 

 

 これから書くことは僕にとってはすべて事実です。

 しかし、それを信じる信じないはここを訪れてくれた方々、めいめいの判断にお任せしたい。

 すなわち、これを実話と捉えノンフィクション・メッセージと受け取るか、

 それともまた物語やら小説と同様にフィクションに基づいたストーリー、

 つまり架空の出来事と捉えるかは皆さんの自由。

 

 

 例えばこのブログのサブタイトル。

 これは僕の実体験に基づいてタイトリングしたものだ。

 実際のところ、僕には亡骸のすぐ傍らで一晩、或いは幾夜かを過ごした実体験があるのだ。

 それも一度ならず三度も!

 しかもそれぞれに、その時の自分の置かれた立場と情況は異なるものの、

 常にない特異な体験をしたという一点に措いては、

 糅てて加えて、その時湧き上がった戦慄的体験と深い感慨を受けたという意味では、

 実際のところ全く同一といって良いほど酷似していたのであった。

 

 つまりそれは、一つとして例外なく、紛うことなく『心霊的かつ神秘的体験』であった。

 

 以来僕は『霊魂』の存在を信じている。

 

 霊的存在である(実際には『霊媒』としての)僕自身の資質についてもそれは同様である。

 

 

 

 ・・・・・・・・!

 
 
 
 知ってました?
 
 
 
 あなたの周りにも霊魂がいることを。
 
 

 

<TODAY'S SERVICE SHOT.

波打ち際.jpg

 

 この先は次回。

 

 <通知>

 ヘッダー画像は一週間後にモノクロームに変更予定です。

 今のうちにカラー写真をお楽しみ下さい。

 

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『屍者の傍らで眠る』其の参_副題:ハロー効果 [来し方]

header01small.jpg


 前回記事から表示している上記オリジナルヘッダー写真の元になった画像がこれです。場所は千葉市美浜区の「稲毛ヨットハーバー」の防波堤の前で、その防波堤の切れ目《ヨットの出入り口》から西の東京湾に向かって夕陽を撮影しました。

 

 この日の夕焼けは殊更に照り輝いて、

 海面に反射された陽光は人々の顔や手足だけでなく、

 それこそ全身を煌めかせながら実に鮮やかに茜色に染め上げて、

 その光の揺らめきは心が浮き立つようでとても眩しくて、

 それこそ幻想的で滅多に見られないほど美しい光景でした。

 令和4年の12月初旬の黄昏時に、

 まるで知らない誰かに導かれるように、

 ここに来られたのは幸運だったと思っています。

 

 そして唐突に思えるでしょうが、何故か今回のお題は『ハロー効果』です。

 でもね、これは唐突でも偶然でもなく、必然であり当然の帰結なのです。

 ここで繰り広げられる全ての文章も、掲載される写真の数々も全て意味あってのこと。

 

 ところで、『ハロー効果』という言葉を見たことも聴いたこともない?・・・でしょうね。

 実はこの『ハロー効果』という言の葉、世の中の真実を読み解くキーワードなのです。

 ですからそのことについて、これから僕の知りうる限りのお話しをすることと致しましょう。

 ちなみにこの”ハロー”とは、英語圏で交わされる午後の挨拶 "Hello" ではありません。

 主にヨーロッパのキリスト教における宗教画を見ると、仏教における如来や観音様の背後を覆う光背のように、古来の神々とイエス様や聖人の頭上にも同じように放射状に光輪が描かれているのが分かります。これが『ハロー(halo)』、英語読みではカタカナで『ヘイロー』、日本では『後光』とか『光背』と呼ばれるものです。

 キリスト教においては神々しい対象の背後には必ず光輪(halo)があることから、(これを語源として、)崇拝あるいは信じる対象の特徴的な性質に引き摺られて、それとは関連のない対象の発言や評価についてもすべてが正しいと信じ込んでしまうことを指して、それを『ハロー効果』と呼ぶようになったとのこと。

 元々あったものから「影響」を受けて内容が「変容」する。

 だから『ハロー効果』は英語では ” halo effect ” です。

 Wikipediaの『ハロー効果』では、冒頭でこの事についての簡潔な説明が為されていました。

ある対象を評価する時に、それが持つ顕著な特徴に引きずられて他の特徴についての評価が歪められる(認知バイアス現象のこと。例えば、ある分野の専門家が専門外のことについても権威があると感じてしまうことや、外見のいい人が信頼できると感じてしまうことが挙げられる。

 ・・・という事なのだそうです。

 まあ、僕流の少しひねた解釈で言ってしまえば、

「よく考えることもなく、対象者の放つ特徴に引き摺られ、以降もその固定観念から脱却できず、無思慮かつ盲目的に強く心(精神)を囚われて、その対象者が持つと信じている権威や象徴的事象に限らず、すべての言動までをも信じて疑わなくなってしまう『困ったちゃん』的現象。あるいはそのような心理状態」

 と、いうことになる訳です。

 え、ひねすぎて分からない。でしょうね。でも読み進めていけば、徐々に分かるはずです。

 ところでこれを悪用したのが、今話題の某〇一教会における「マインドコントロール」とか、おバカな陰謀論者がその根拠としている「印象操作」なのかも。・・・知らんけど!

 それにWikipediaのこの項目ではこんな記載もありました。

あばたもえくぼ」、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」ということわざは、この効果を表している

 ・・・とのことだそうです。

 それからすると、僕の見るところ「色の白いは七難隠す」も、事実をよく確認もせずその者の一番の特徴というか目立つところに引き摺られて、その者の難点というか本質的な問題を敢えて見ようとしないという意味では、実はまったく同じことなのだろうという気が致します。

 少し違いますけど、いますよね。結〇してから、こんな筈じゃなかった! とか後悔する人。

 

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『屍者の傍らで眠る』〜其の弐 [いま]


2023/01/19 17:00既製のレイアウトはちっとも面白くないので、オリジナルヘッダーに替えました。


03波打ち際.jpg

2023/01/22 10:20上記の写真を入れ替えました。前の写真とは波形や海の照り返しが異なります。


夕日を見るのが好きだ。

でも両手をメガホンよろしく口に当て、

沈みゆく太陽に向かって「バカヤロー」なんて叫んだりはしない。

半世紀も前の学園モノ青春ドラマじゃないんだから。

でもね、一人黙然と沈みゆく夕陽を見詰めるのは好きなんだ。

太陽がまるで地球に吸い込まれるようにすうっと水平線に沈み、灰色掛かった反薄明光線が、

富士山の稜線の形通りに、東に放射状に薄墨色に流れる滅多に見られない幻想的で美しい光景。

その美しい光景が薄れぼやけ、富士のお山の秀麗なシルエットが茜色から濃灰色に色を変える頃、

空が茜色から徐々に青みを増し、縹(はなだ)色から群青へと次第にその色を変えていく。

それがやがて瑠璃色になり、瑠璃紺に変わり、そしてついに濃藍(こいあい)に至り夜を迎える。

そうして日没からわずか四半刻のちには空のあちらこちらに星が瞬き、

夜の時空にこの世界が完全に支配されるまで刻一刻と時をきざんでいく。

その三十数分間のドラマが、僕にとって、否、人間にとっても、

とてもとても大切な時間にも思えるんだ・・・。

 

夕暮れは人を夢想家にも芸術家にも、詩人にも哲学者にも変える力を持っている。

 

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『屍者の傍らで眠る』〜其の壱 [ゆくすえ]

07寄せる波に想いを寄せる.jpg


人生の黄昏という言葉がある。でも僕は死ぬ間際まで明るく輝いた人生を歩みたいと思うんだ。

 

挫折多きこの半生。

人生の悲哀は何度も味わった。

生きていく以上そんなことは誰だって一度や二度は経験しているもの。

しかし老いてからの挫折とそれに伴う心の痛手はさすがに堪えるもの。

還暦を過ぎてからの挫折は二度ほど味わった。

一度目はなんとか乗り越えたが二度目は殊の外堪えた。

そこから再び立ち上がるのは挫折には馴れているはずの僕でも容易ではなかった。

でもどうにか立ち上がって今僕はここにいる。

明日になれば東の空から太陽がまた昇るように、

僕もまた何食わぬ顔で明日を迎え、

天から与えられた日々を精一杯生きるだろう。

生きている限り哀しみや苦しみを乗り越えてそうやって日々を生き切るであろう。

天から召されるその日まで。


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第一印象は本当に大事なのか<Vol.2> [静謐な一日的ESSAY]

ダイサギの夕べ.jpg

 この写真は何か。また、この写真にあなたはどんな印象を持ったか。あるいは何を連想したか?

 常識とか通説というものを僕は余り信じたことがない。というより、常識に囚われないというか、既成概念を先ずは疑ってみるという僕の常識は、<common sense breaker>であるからにして、世の中からは非常識と捉えられ異端視されるのかもしれない。しかも一旦口にすればそれを変えないところから、横紙破りな人と言われることもある。

 ところでなぜ常識に囚われないのかといえば、僕の判断は直観に基づいてなされることが圧倒的に多いからだ。というより僕も皆と同じように第一印象を大切にしているし、元々初見で論理的に物事を捉える習慣も考えもない。糅てて加えてその判断の基準に恐らくは経験値は生きてはいるものの、それを意識することなく、即座に下されることが圧倒的に多い。

 しかしそれ以降が人とは違っている。僕は何事も必ず懐疑的に考えるのだ。つまりあくまでも第一印象は第一印象であって、それが正解とは限らないと考えるのだ。だからいつも第一印象の後に必ずこう思う。

『それで本当に良いのだろうか』と。

 ゆえに第一印象をすぐに言葉にすることはない。それは上記の理由に因るのだが、と同時に己の判断に自信がないとか、迷いがあるからという理由でもない。多くの場合、周りから必ずといって良いほど誤解を招くからだ。

 何しろ僕は異端者だから。だが概ね『正しい異端者』だ。

 例えば周りの多くがあるひとつの案に靡いて、尚且つそこに僕自身が直観的に違和感を感じた場合、大概の場合多くの人達が肯定している案こそが間違っている。

 だから僕は(他人の考えや印象よりも)自身の(違和感という)直観を信じるのだ。

 そこからその直観の論理的裏付けや実証を重ね(とは言っても短時間である)、そうして初めて公に口にする。しかしそれでも時に懐疑的に周りに受け取られるか、ある種の反発を以て迎えられるのだった。反発の理由は簡単だ。

 それは彼等彼女らの第一印象や常識とは異なった判断、あるいは結論だからだ。

 それでも大概の場合、僕は一旦口にしたことを撤回しない。

 なぜならば僕は誰が何と言おうと『正しい異端者』だからだ(^_^)

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第一印象は本当に大事なのか<Vol.1> [静謐な一日的ESSAY]

2022_1_1_09_15.jpg

 2022年1月1日元旦の富士を眺む。

 謹んで新春をお祝い申し上げます。今年もよろしくお願い致します。

 昨年はブログを開設して二回しか更新しない為体でしたが今年もそうなりそうです。あくまでもオフィシャル優先でプライベートで余裕のある時、尚且つ書きたいことがある場合だけ記事を書く。・・・そういう(我が儘な)姿勢で、今後も続けていく考えですので、どうかその事をご理解頂いた上でお付き合い頂ければと考えております。

 では本題に入ります。標題は「第一印象は本当に大事なのか?」です。

 実はこれ、『己は何者なのか?』という本質的な問い掛けともなり得る、実に哲学的命題なのです。

 人々の認識は根拠のない事柄に大きく左右され、その結果の判断や結論は概ね著しく歪められるのが常だ。それが第一印象というものの危うさだといえよう。

 だがその第一印象を過半の人々はその後も引き摺って、最後まで初っ端の印象による考えを改めることができない。

 ということは別の言い方をすれば、第一印象で本質を捉える確度を上げるか、あるいは己の感性を磨くという発想になるのだが、むしろ第一印象に囚われることなく、柔軟な発想でその本質を見極めてから結論を出すという考えることもできるのではないか。むしろ直観が鋭くない人は、第一印象を捨てて後者を選ぶ方が本質や真実に迫れるだろうという気がする。

 という訳で人見た目が八割などという言葉を僕は端から信じない。

 この、過半の人が第一印象に引き摺られる現実を、大したことではないという人は、少しというよりかなり大げさかも知れないが、結果的に犯罪の被害に遭っても、戦争や紛争に巻き込まれても、何一つ反論ができない。

 なぜなら第一印象を優先させたがゆえに、一番肝心なその事柄の本質を見誤ってしまっただけでなく、その後何度も認識を改める機会があったのに、その機会を見過ごし第一印象の根拠を探るでもなく、唯々無知蒙昧に自分の判断なる幻想を事実あるいは真実だと信じ込むという愚を改めようとしなかったからだ。

 それを心理学的にいえば『ハロー効果』によって『認識バイアス』が掛かっている状態という。

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『ゲシュタルト崩壊』 [素人的且つ鋭利な刃物の様な心理考察]

名も知らぬ花.jpg


 あなたは『ゲシュタルト崩壊』という言葉をご存じだろうか。一つの対象物をジッと見つめていると、徐々にその対象物の形態が崩れて来て、最後は対象物への認識や、その意味までもが分からなくなってしまうという認知心理学上の用語だ。

 この言葉は欧米では結構知られていて、小説や映画やTVドラマなどでも、案外頻繁に出て来る。ただ本来の意味で使われる事は稀で、一人の人間が急激、あるいは劇的に変容をしていく様を描いた作品が多い。または作中で会話のエッセンスとか、はたまたそれとはまったく逆の、パロディかギャグはたまたウイット的にあらゆるシチュエーションで使われる。

 これはパロディにもなるくらいだから、精神病理学的なものではなく健常者にも十分起こり得るというか、元々精神的疾患とは無縁で、あくまでも認知心理学的領域での話である。

 僕には、自宅のトイレの壁をジッと見詰めていたら、壁の模様が波打っているように思えて、慌ててもう一度ジッと目を凝らしたら余計おかしくなったという経験がある。見つめ直したら壁面全体が回転し始めて、これはいけないと思って暫く目を閉じて安静にしていた。そして五分も過ぎた辺りで眼を開けたら壁の回転は終わっていた。

 ゲシュタルト崩壊とは、ある一つのものを見続けると現れるというが、アルファベットやアラビア数字などの単純な形では、こうした視覚崩壊は起こりにくいとされている。

 故に漢字などをジッと見ているとなりやすいと言われている。例えば「時」という漢字をジッと見ていると、「日」と「寺」に分解されて、更に見ていると「日」も「寺」もバラバラに分解され、やがてその(漢字本来の)意味を失って、見ていても意味がまったく分からなくなってしまうというような視覚現象であるらしい。それは何も視覚だけに限らず、聴覚や味覚などでも発生するとのことだ。

 そういう意味では先に挙げた壁の回転はもしかしたら三半規管系かメニエール病的な病気かも知れないと思い、二度ほど医師に診て貰って精密検査をして貰ったが、何も異常は見つからなかった。まあ僕自身がごく普通の人間だとは思っていないので、異常があろうが正常であろうがどちらでも別に驚きはしないが、進行性の病気だと妻に迷惑を掛けるのでそれだけが嫌なのだ。

 僕は、妻であろうが身内であろうが赤の他人であろうが、ひと様に迷惑を掛けたくないという思いが強い。我が儘かも知れないが、僕は人の世話は厭わないけれど、自分が世話をされるのは嫌なのだ。だから介護などたぶん受けないだろうと思う。他人様の世話になるくらいなら自裁した方がマシだ。

 ところで僕がゲシュタルト崩壊を初めて経験したのは、正確にいえば今から五十一年前の中学二年の盛夏六月末から七月上旬に掛けてのことだ。ちょうど期末試験の真っ最中だった。

 昔も今も僕の学習法は、徹底した反復練習によって脳裏に記憶を焼き付けるというオーソドックスなものであった。

 当時の僕のIQは148で突出していた。学年でも成績は常にトップクラスで、得意科目と自負する数科目では、学年でテストの成績でそれまで一番を外した事は一度もないという自負は、何よりも己の自信に繋がっていた。

 そんな僕だが、実は小学校では劣等生かつ問題児として扱われてきて、その時のコンプレックスが持ち前の反発心とも相まって中学生になったのを契機に、心機一転「皆を見返してやる」という気概とモチベーションに繋がったのだと思う。

 因みに148というIQ指数は小学4年生の時全国知能テストの成績で、学年一の劣等生が、実は学年で一二を争うほど知能が高かったという驚くべき結果は、同級生はおろか担任や教職員、教頭、校長まで知るところとなり、一躍時の人となった。

 だが僕の成績がそれで良くなることはなかった。なぜなら僕の成績が悪いのは小五で急遽担任になったオールドミス(定年まであと三年とか言っていた)が、先入観に基づいた偏見の持ち主であったことが原因だからだ。小四の担任は人徳者だったので成績はそこそこ良かったが、その先生は教頭試験に合格して他の小学校に転任になってしまった。代わって担任になったのは、厳格な指導で父兄には人気があるそのオールドミスだった。その新たな担任にはそんなにIQがいいのはカンニングしたからだろうとまで言われた。しかしカンニングなど出来ようはずはない。なぜならその学級で一番IQ指数が高かったのは学級委員長だったが、その学級委員長でさえ、記憶力の項目では満点に遠く及ばなかったが、僕は20の設問をすべて正解していたからだ。しかし人間とは愚かしい生き物だ。先入観でものが正しく見えないのだから。だから容易に考えを改められない。

 当時の僕は常日頃から担任や同級生に軽んじられるどころかイジメまで受けていたが、自分がみんなから言われるように馬鹿ではなかったという事実に戸惑うことはなかった。どんな境遇にあろうと、自分は誰よりも努力していたし、誰よりも色々なことを知っているという自負は当時からあった。自身小四からかなり本を読んでいたし、しかもその読む本自体が児童書などではなく、大人の読む小説主体だったから意識はかなりませていたように思う。

 だから虐める担任教師や同級生を僕は腹の中では逆に見下していた。しかし或る日を境に虐めも一切なくなった。「目には目を歯には歯を」を実践したからだ。遣られたら遣り返す。それ以来僕は泣き寝入りなど一度もしたことがない。

 それから二十年後、結婚式で父から贈られた言葉が脳裏に浮かぶ。『禍福は糾える縄の如し』、悪い事も良いこともそうは長くは続かないと思えば、一時の不遇など大したことはない。当時はそんな言葉も知らなかったし、当然意味すらも分からなかったが、現実問題として良い事が続くよりも、悪い時を過ごす方が長いという思いはあった。それでも人はその短い幸福を求めて止まない。

 小学生の身で無意識というか漠然と、そう達観はしていたのだが、そうであっても僕の小学五年生から六年生に掛けての二年間は、人生でもっとも悲惨だったという記憶は拭えない。ただ環境に恵まれないだけだと分かっていたが、あの試練に耐えられなかったら今の僕はこの世に存在していなかっただろう。しかしその試練に耐えられたからこそ今の僕があり、僕という不屈の魂が今こうして存在しているのだろう。

 この試練の二年間があったからこそ、いつかこの不条理な世の中を見返してやろうと決意したのだ。それには人の何倍も努力し、周りを凌駕する知力を身につけ、何を言われても論破できるくらいにならなければならないと子供心にも思った。そのために、興味があることは他人の二倍も三倍も多くの時間を費やして勉強したし、それ故に人後に落ちないと自負してもいた。

 だがそれでも尚、担任が偏見の塊のような人物であれば学校は地獄でしかない。僕は毎日何かしらの理由で立たされたりビンタを喰らった。それでも挫けなかったのは、持ち前の『なにくそ精神』と『不条理なものへの強い反発心と敵愾心』があったればこそ。当時の僕は挫折することはあり得ないとさえ思っていた。

 暴力を振るわれた時の僕の目は、虎の目のように爛々と輝いていたという。

 しかしそれは敵愾心からではない。謂わば獲物を狙う眼だ。

『目には目を歯には歯を』、遣られたら遣り返すのだ!

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絶滅危惧種となりつつあるブログに参加してみんと我思う [はじめまして]

ダイサギの群れ1.jpg

 我思う、故に我在り。
 これは彼(か)の、デカルトが『方法序説 (Discours de la méthode)』で提唱した有名な命題である。この言葉は仏語では<"Je pense donc je suis"、ラテン語では"Cogito ergo sum">と呼ぶがラテン語訳読みの『コーギトー・エルゴー・スム』の方が日本では有名になった感がある。
 難しい概念なので、うまく表現できるかどうかは分からないので、Wikipediaからの『我思う、故に我在り』という表題の解説部からの抜粋引用に頼るが、
全てについて疑うべし(De omnibus dubitandum)という方法的懐疑により、自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、まさにそのように疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識している我だけはその存在を疑い得ない。「自分は本当は存在しないのではないか?」と疑っている自分自身の存在は否定できない。―“自分はなぜここにあるのか”と考える事自体が自分が存在する証明である(我思う、ゆえに我あり)、とする命題である。コギト命題といわれることもある。哲学史を教える場合の一般的な説明によれば、デカルトはこれを哲学の第一原理に据え、方法的懐疑に付していた諸々の事柄を解消していった、とされる。
 と、言うことらしい。
 要するに『自分の存在を懐疑の念を以て否定しようとしても、自分の存在を疑っているという自分の存在は疑いようがない。そう考えること自体が自分という者が存在する何よりの証明である』と言うことらしい。
 哲学者とは何とも捻た考え方をするものだと思うが、私はこういう考え方が嫌いではない。
 物事を一面的にしか見られない人とか、画一的というか大勢に流れると言おうか、他に迎合する安易な生き方を良しとしない自分には、この様な重層的で複雑でそれでいて理路整然とした思考法は、至極合っているように思えるからだ。
 

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『屍者の傍らで眠る』〜其の㭭 [それから]

パートナー.jpg『PAIR』

 

  

 心霊現象とか神秘体験といった超常現象を見たという話を聞くと、大概の人が眉に唾して話を聞くものらしい。まあ現実的にそうした体験は再現性はゼロだし、霊魂は殆どの人は不可視だから検証出来ないし、再現性もなく検証不可能となったらもうこれは『科学ではない』と断じる人が殆どではなかろうか。

 でも有史以来霊魂の存在は、洋の東西を問わずずっと絶えることなくその存在については語られて来たのでそれを一概に否定も出来ないのが現実だ。それに死後の世界を誰一人見た者は誰一人いない。存在が否定できないが、存在を証明するものもないとなれば、それは研究の対象である。故に古来から心霊現象に関わる研究は数限りなく為されて、それこそ天文学的な学術的レポートが発表されている。

 故に科学万能社会の現在でも、今以て誰一人その存在を否定も肯定もできないは事実だろう。

 尚、それが証明できなからといって、

『それが科学的でないと断じるのは科学的ではない』

 という真実を皆さんは肝に銘じるべきだろう。

 コペルニクスが『地動説』を唱えてからも、長い間人々や宗教界も天動説を信じて疑わなかった事実が何よりもそれを物語っている。その事実は科学万能の現在に措いても然り。人々は科学的に立証されるされない以前に、感情で物事や事象を判断し、理解できないものは拒絶するか無視するのが常だ。

 それが証拠に、科学者や著名な知識人ですら何ら科学的根拠もない『陰謀論』を唱えて逮捕されたり、世界中で物議を醸し出している。この『陰謀論』の科学的根拠を示せと言ったらそれこそ誰一人それを証明できないであろう。それでも世界中で、そして欧米かぶれの日本人の過半もそれに靡いて、『陰謀説』を信じて話題に載せたりするのだ。

 何一つ科学的ではない、情動そのものである『陰謀説』をね(o゚▽゚)o

 でも僕は前述の通り好奇心旺盛で、知らないものを知らないままにして置けない困った性格の持ち主だ。良くいえば探究心旺盛、悪く言ったら真理を見極めるまでは諦めない「しつこさ」が僕の特性であり個性なのだ。

 という訳で、『常ではないもの』に対しての好奇心が旺盛で、人並み外れた興味を示すのが僕に取っての常であった。そして『常ではないもの』の筆頭は、誰しもが人や身近な生き物の『死』であろうと考えている。たぶんこれに異論のある方は殆どいないであろう。

 更に言うならば、『死』と『霊魂』の存在とその関係は、不可避・不可分であろうと考えているのが僕である。何故ならそう考える根拠というか「よすが」になる経験を、僕は実際に経験してるからだ。

 

 幼い頃より青年期に入るまで死は身近にあった。それも自然死よりも事故死や病死や異常死というものの方が圧倒的過半を占めていた。そして自然死以外の死は僕の恐らくは霊性を呼び覚まし、目の前で起こった出来事を何か特別なものあるいは怪異な出来事としてではなくて、当たり前のこと、つまりごく自然な事としてそれを受けいれた。

 当然ながらそれらが僕に与えた影響は大きい。生死感は元より人生観や生き方にもそれは多大な影響をもたらしたのだから。

 これは余談だが、恐らくは認知症にでもならない限り、僕は自分の死期を悟ったら従容としてそれを受け入れるだろう。裏を返せば、もし認知症の兆候が見られたら、僕はその時ある決断をしなければならないと思っているが、それはごく私的な事だから皆さまにそれを話すつもりはない。

<閑話休題>話を元に戻そう。

 霊魂の存在を目の当たりにし、それを当然の事として受け入れて以来、他人と自分の違いの大きさが僕を大いに苦しめることになる。

 青年になって以降、普段の僕がそれを意識することはないが、無意識下だからこそ僕のこれまでの来し方にも、それは当然色濃く影響を与えていたと思われる。

 幼年から多感な青年期までの四半世紀の間に、強烈に記憶に刻み込まれる死と遭遇していた。事故死、病死、自然死。死の様態は様々であった。だが共通していることがふたつだけあった。

 一つ目は僕は亡くなった対象(人とは限らない)から殊の外愛されていたことだ。ただ僕がそのことを、当初から明確に認識していたかというと、必ずしもそうではない。現に、はじめて『その死』を認識した祖父の場合は、数年間離れて暮らしていたがためとあまりにも僕が幼かったが故に、生前祖父が僕を殊の外かわいがっていたことすら覚えてはいなかった。

 二つ目の共通点は、僕に強烈な印象を与えた。なぜなら、それがこの世に有り得べからざる現象だったからだ。もし僕以外の誰かがそれを見たとしても、それは間違いな超常現象だと認識したであったろうし、神秘体験だと思っただろうし、明らかに心霊現象そのものであった。

 だが如何せん、それは僕以外の誰一人、見ることは能わない。

 はじめてそれを見た時、僕がどう思ったのかをまずは話しておこう。僕はその時、確か小学校入学前だったと記憶している。だからそれが何か尋常でないもの、この世に有り得べからざる物であることはだけは分かったが、その物体が僕以外の誰にも見えないことを不思議に思った。

 不思議と言ったが、当然そのような言葉だけで終わる話ではない。

 以来僕はちょっと変わった子、狐憑き紛いの神経質な子という風評が立った。普段の僕がおとなしくはあったが笑みの絶えない明るい感じの子どもであったからこそ、それは逆に余計に悪目立ちしたのかも知れない。

 では僕がそこでいったい何を見たのかをお話しよう。

 通夜の夜中に尿意を催して一人御不浄(トイレのこと)に向かった。それは用事を足して父母と姉の寝る部屋に戻ろうとした時の話だ。その当時の郷里の父方の実家は、御多分に漏れずに部屋の構成は田の型配置で、外側はガラス障子の建具で構成された板敷きの縁側廊下となっていた。

 僕がそこで目にしたのは、板敷きの縁側廊下から開け放たれた障子越しに見た、祖父の遺骸の横たわる広間に浮かんでいた何とも形容しがたい物体だった。

 それはゆっくりと回転しながら空中を浮遊していた。半透明で翡翠色をした燐光を放つ物体で二つの四角錐の底面同士を貼り付けて八面体にした感じ。それが田舎家の18畳の広い和室の中でゆっくりと回転する様を想像できるだろうか? 僕はそれを実際に見たのだ。

 後年になって分かったのだが、僕にとってそれは尋常ではない死を意味していた。しかもそれら死の数々は、後年更に多く接した死の様態とは明らかに異なっていた。というよりも青年期以降、僕はそうした様態の死に一度しか接していないし、感応もしていない。

 それからすれば、恐らくはその能力は普段は影を潜めているだけなのだろう。しかしいざ『その時』が来れば、恐らくは、否必ずまた発動する。

 最後にその様態の死に接したのはわずか七年前だ。初めは恐れを以てそれらの死を受け入れた。だが、それが度重なれば死というものに対する認識は変えざるを得ない。

 幼い頃から人の感情を敏感に感じ取ることが出来た。

 言葉というか音声で感じ取ることができたのだ。言うまでもなく実際に誰かが声を出して語っている訳ではない。誰かの心の内の声、つまり本音・本心が僕の耳には聞こえていたのだ。

 ただ大勢の中だと、それが誰の感情であるかを見極めることはできなかった。だがこの事象は超能力というのとは違うものだと認識している。なぜなら、今に至るも常時それを感じることは終ぞなかったし、それを明確に語ることは困難だ。

 これは誰でも本来は持っている根源的感覚であり潜在能力なのだと僕は思っている。しかし多くの人はそのことに気づくことなく一生を終えてしまうのではないか。

 それが情況によって現れたり消えたりする。だから捉えどころがないし

死は忌避したり忌みするものという認識はなく、ごく自然なこと、日常だという認識があった。だから親しい者(人間とは限らない)が亡くなれば、最後の時を一緒に過ごしてあげたいと思う。

 具体的に言えば、僕は過去において、死んだ者のすぐ傍らで三度眠ったことがある。もちろん亡骸は一つではなく三つであり、時期も十三歳、二十六歳、三十六歳と異なっている。

しかし、年月こそ違っているがそれらはいずれ劣らず、スピリチュアルな体験だったと言えよう。

知っているかい?

 人が死んで暫くの間は、傍にいる生きている者を、死の世界へと引き摺り込もうとするのだよ。人が死んでとは言ったが、これは何も人間に限った話ではない。例えばペットなどでもあり得る。つまり生きとし生けるものと関わりがあるならば、誰でも経験する可能性はあるということだ。

 こうしたスピリチュアルな実体験に基づいて、僕ならば確信的にそう言える。ただそれを体験というか体感というか、認識できる人と出来ない人がいるようだ。要は生前どれだけ亡くなった者と拘わっていたかがその鍵になる。故に、死んだ者と係わりが深ければ深いほど、引き摺り込まれる恐れは大だ。まあ屍者との生前の関係が良ければ良いほどそれを回避できる確率は高いし、そうであれば引き摺り込まれるどころか却って『守護霊』となってくれることだってある。

 ところでどうしてそんな体験をわざわざする必要があったの?・・・という質問が来そうだが、僕は敢えて傍らで眠ることを選んだんだ。だって、亡くなってしまった者ともう一度話してみたかったから。つまり僕は関わりが深かったからこそ、傍で一晩一緒に過ごすことを敢えて選んだのだ。

 初めてのスピリチュアルな体験は五歳の時だが、僕は以来霊魂の存在を信じるようになった。

 僕の前に現れた霊魂に問い掛けたところ、どうも霊魂には大きく分けて二つに分かれるらしい。すなわち、悪しき想いを懐き人々に災いをもたらす『悪霊』と、その真逆の『善霊』だ。その違いが明確には分からないが、それぞれ『怨霊』と『精霊』とに置き換えてもいいらしい。

 幸いなことに、僕の前に現れたのはすべて『善霊』だった。生前のその者との接し方で、『悪霊』になるか『善霊』になるかが決定づけられるとの事。ちなみに『悪霊』は<あくりょう>、『善霊』は<ぜんれい>と呼ぶらしい。

 

 信じる信じないはあなたの自由です。何しろ見える人には見えるけど、見えない人には一切見えないから。でも見えない人は突然死するんだろうなと思う訳。なにしろ原因不明の死だからね。

 でも見える人には見えるんです。見えない人の肩に、霊魂の意思が形になって、手を掛けて抱き込もうとしている姿が。僕が見たその人は一週間後に眠るように亡くなったそうです。

 ところで霊魂は、緑の燐光を放ってゆっくりと回転しながら、空中を浮遊しているんですよ。観察者(僕のこと)が感応すると、霊魂もそれに応えて必ず感応します。観察者=霊媒が精神的に強く感応すると、浮遊する霊魂の回転も輝きも増し辺りを照らします。聞けばまるでミラーボールのようですが、実際にはミラーボールのような疑似球体ではなくて、

四角錐を二つ合わせた八面体で、緑の燐光色を放つ半透明な霊体をしているのですけれどね。

 

知ってました?

 

あなたの周りにも霊魂がいることを。

 

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